希望の消えた国で。

現在、若い労働者の間で新型鬱なるものが増えていると言われている。
新型鬱とは、従来型の鬱とは違い、自己中心的な発想を持った鬱とされている。
例えば、従来型の鬱では、「私は何でこんなこともできないんだ?」「周りがイライラしているのは私のせいなんだ」「私なんかいなくなればいいんだ」という様な自己を必要以上に責めるという傾向がある。
ところが、新型鬱の場合は仕事がうまくいかないのは会社や上司のせいだとし、上手くいかないことを他者に求める傾向にあるとされている。


これだけを見ると、従来型の鬱に比べて新型鬱に関しては本当に病気であるのかどうかなど首をかしげてしまうかもしれない。
実際のところ、現実問題として色々な問題を引き起こしているようだ。
更には、よくわからないゆとり教育の弊害的な部分のみが強調された結果として、その様なものの弊害であるとされて、事態はいっそう意味の分からない状況になっていっているのが現状である。


しかし、よくよく考えると、会社や上司の恨み言や会社に行きたくないなどのテンションの下がり方は、中高年も持っている事に気が付く。
例えば、居酒屋で2〜3人のサラリーマンが飲んでいれば、どの年代であっても上司や会社の不平不満しか聞こえてこない。
また会社に行きたくないなどというのは、「サザエさん症候群」などの例からしても、日本社会においてはとても一般的な問題であるように思える。
私は、新型鬱に関しては、全く以て新型ではなく、全日本人、特に、一家の大黒柱として期待されているような中高年も含めた大多数の成人男性が罹っている国民病なのではないかと考えている。


しかし、ここにきて、その国民病が若者のみの発祥としてクローズアップされているのは何故なのだろうか?
私はこれは若い男性たちからある希望が失われてしまった結果だと考えている。


それは
「このまま、30後半以降まで座っていれさえすれば、2人の子供を私立大学に入れれるだけの収入になる」
という、大黒柱としての尊厳という希望である。


どれだけ、会社でごみごみ言われようと、家庭で粗大ごみと言われようとも、それでもこの尊厳は全ての労働をライフワークに変化させることができる尊厳であり、希望である。
男性は、自ら積極的に社会に関わらない限り社会性を持つ事は出来ない。
そういう意味で、労働というのはこの社会性を手に入れるもっとも簡単なものである。
しかも、この尊厳によって、すべての労働がライフワークに変わる。
だからこそ、過労死というのは一種の切腹のように、ある意味で散る美しさを持っていたのであった。


しかし、この希望はこの尊厳は様々な過程で打ち砕かれてしまったのである。


どの様に仕事をしていようと、会社がつぶれるときはつぶれるし、首になる時は首になる。
滅私奉公が給料の安定につながらない。
給料の向上への期待は、どんどんなくなっていく。
大黒柱としての尊厳は、年収の低下とともに坂道はおろかダストシュートを転げ落ちるがごとくである。
そう、多くのサラリーマンにとって、労働がライスワークに変わってしまったのである。
ライスワークで命を落とすほど/体を壊すほど働く事に対して、「散る美しさ・死ぬことと見つけたり」の美学を感じ取ることがあなたは出来るだろうか?


この問題は特に、子供や家庭を確立することが出来ていない若者に直撃する。
ある程度歳の行った中高年は、この様なメンタルハザードは、突然職が無くなる以外にはまずありえない。
しかし、若者にとっては、与えられる仕事ですら、このメンタルハザードを引き起こす。
目の前にある仕事は、ライフワークにはなり得ないのである。
全てはライスワークだ。運が悪ければ、愛する配偶者すら十分に支えることができない。
今、早婚化しているものの、子供が少ない現象が発生していると言われるが、これは完全にダブルインカムという安定を早々に確保しようという現れである。
明らかに、若者が生きる社会としての希望が消滅しようとしている。


若者は将来の希望であると言いながら、その若者に希望を与えられない国で起こっている悲劇を見て。
そうした上で、すべての人に問う。
我々が目指した社会とは果たしてこういう社会であったのだろうか?






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