新年を迎えまして

お慶び申し上げます。
と、言っていいんだっけ?とか思いつつ。
もう全然全く更新していないブログなんだけど、掘り起こしてみようと思う。
なにぶん、自分自身のために。
なんか、ブログを書くリズムが作れそうな予感がしているから。


新年を迎えて装い新たにと言った様な事もなく、まぁいつも通りの生活を問題を起こしつつも送っておりますね。
何か新しい事をしたいと思うけれども、この頃はドンドンと保守的な考え方になってしまう様な流れ。
いやはや、老いというものは極めて恐ろしいものであると改めて実感しております。


さて、去年はいろんな意味で良いことよりも悪いことに意識が寄ってしまった悲しい年でしたが、デコボコがあってこそ波というか生きているという事でもある様に思えますわね。
とは言え、初詣の御神籤は末吉でありました…
内容は「まだまだ目が出ないので忍耐・努力を続ける様に!」との事で、まだ続けるのかよ〜とか思わないでもないですが、たぶんこういうのは諦めた頃に変わってくるとも思えるので、もう少しのんびり焦らず行こうかとも思っています。
努力ってあんまり好きじゃないけどもね。


というわけで、少し更新して行きたいと思いますので、またよろしくお願いします。

人は何故他人に善意を施すのか?という問いについての過去の議論をおさらいする。

何故、人は他人に対して善意を施すのだろうか?
何故、人は善い事をしようと考えるのだろうか?


実はこの問いはかなり大昔からの哲学のテーマでもある。
中世を超えて、プラトンアリストテレスの時代までさかのぼることも可能だ。
もっと言ってしまえば、もしかしたら「埋葬の文化」が現れ始めた時代までさかのぼるのかもしれない。
確かに、死体はそれが痛むことによって伝染病の中心地となってしまうため、それから避ける必要があったという公衆衛生学的な見地は重要であるものの、同時にその死体が埋められた場所に花を添えるというのはどの様な心理的なポイントがあるのだろうか?という「埋葬の文化」である。
明らかにその「埋葬場所に花を添える」というのは、故人を偲ぶという一種の善意であることは間違いないのではないだろうか。


さて、この善意を何故行うのか?という問いに関しては現在、私が知る限り3つの分野で、ある程度の回答が得られている。少し紹介していこうと思う。


1.社会学的見地からの「社会契約論」
日本人は何故か忘れがちだが、まずこの議論は極めて大きかったように思える。
中心人物はやはりルソーと言えるだろう。
実際の起こりはホッブズリヴァイアサンであった。
人は社会性を持たない限りは生存することが不可能であるという前提の下、ではその社会の在り方として何を志向するかというものがこの議論のポイントである。
ここで提唱された考え方として「あなたは私を傷つけないという最低限の信頼が担保されなければ社会を維持することができない」と考えたのであった。
これは法学的統治論では非常に重要なことであり、最古の法体制と言われるハンムラビ法典の中にも「目には目を、歯には歯を」という前提があった。
これを、信頼性という部分に注目すると、前述の「貴方は私を傷つけないという最低限の信頼が担保されなければ社会を維持することができない」というものとなる。
ここから少し発展すると「何故人は善意を他人に施すのか?」と言えば「貴方の事を信頼しています」という積極的な証となるという事である。
つまり、右手で手を差し出さないと失礼にあたるのと一緒である。
(ちなみに、握手というのは効き手で両者行う事によって、腰に差したサーベルを互いに抜くことができなくなる。そういう点で、右手を差し出すという事は危害を加えないというボディランゲージとなる。これは日本でいうところのお辞儀と一緒である。)
この様に、「社会契約論」的に言うならば、
「信頼という社会契約に基づく社会システムを守る必要性から、善意というモノが希求されており、人間はそれを社会性が無いと生きていけないという必然性から善意を行っていく」
という、ある種の運命論的・本能的な発想がそこにはある。


2.キルケゴールの哲学的見地より「3つの"実存"論」
善く生きるという問題であるならば、哲学的見地を忘れてはいけないと私は思っている。
そうした中で、とりわけ社会的善意に注目した哲学者は数多くいたが、私はここではキルケゴールを挙げたいと思う。
キルケゴールの3段階に及ぶ「実存」論である。
ここでは、特に第2段階目の「倫理的実存」というものに注目しよう。
その前にキルケゴールの3段「実存」論を少し整理する。
1段階目は「美的実存」と言い、言うならば己のみの欲求・善(例:お腹すいた・お金持ちになりたい・楽がしたいなど)の追求である。
これは追求していくと刹那的な幸福を求めるようになり、その様な幸福状態はすぐに消え去る不安定なモノなので幸福な人生とは呼べないという結論をキルケゴールは出している。
2段階目は「論理的実存」と言い、言うならば他者との関係の中での道徳などの社会的善の下に己の存在を規定していくというモノである。
これは例えば、ボランティアなどを通じての感謝や、社会的道徳に従った生き方などによる心の満足度というモノは、1段階目の快楽・幸福から来る不安定さや罪悪感に対してより幸福状態を維持できると考えたのである。
しかし、この幸福も「ここまでやったらこのようなリターンが得られるはずだ!」という善意の強要が生まれてしまう上に、善なる心の動き(≒良心)に敏感となってしまった結果、その様な心の動きに対して罪悪感や絶望が浮かび上がってしまい、不十分であるとキルケゴールは結論付けている。
3段階目は「宗教的実存」と言い、1段階目と2段階目の不安や絶望という不幸な状況に対して積極的に受け入れる器を手に入れる必要があるという心の問題に移行している。
すなわち、キルケゴールとしては、態度や行動などによって幸福が手に入るのではなく、メンタリティをどのようにバランスとっていくかが人生の幸福であると考えたわけである。
いわば、質的向上を図るというよりも、質的変換を図るというイメージであろう。
とはいえ、キルケゴール自身もここから先に関しての議論は不十分であることを認めている、非常に難解な議論となっている。
今回はこの3段「実存」論を説明することが議題ではない。
一度この問題の説明は後に置くことにする。ポイントは何故人が善意を施すのか?という問題である。
これは見ればわかると思うが、まさに「論理的実存」において端的に説明されている。
つまり
「それをやったら自らが幸せになるから」
である。
ただし、それには少しだけ条件が付けられていて
「他人からのある程度(ここには個人差が発生する)の評価」
もポイントになってくることをキルケゴールは明確に気が付いている。


3.進歩主義的な空想的共産主義者たちの「ユートピア論」
近代思想の祖であるとされるデカルトは「コギトエルゴスム」とともに「絶対唯一神としての神は死んだ!」と代表作である「方法序説」の中で叫んだ。
しかし、その一方で「人類は進歩を求めており、その進歩した姿としての何かを神と呼ぶのであれば、神は復権する」とも説いている。
近代主義思想とは、進歩主義思想の急進化というカタチでもあらわれていたという点で極めて西欧的な考え方なのであろう。
その進歩主義思想はセント・アウグスティヌスから始まり、トマス・モアを経由した「ユートピア」思想にも入り込んでいく。
そして、社会的には資本主義の弊害とともに生まれつつあった共産主義的思想と融合し、空想的共産主義マルクスが称した思想へと移行していく。
この過程で、資本主義の進歩した形としての共産主義という進歩主義的な視点が入り込んでいく。
こうした中で、新しい世界としての共産主義の中で善意は理性的な問題として取り扱われていく。
進歩主義と理性的な善意が紡ぎだす善意を行う理由とは、
「より善い社会を目指す結果として人類は善意を行っている」
というモノである。
より善い社会とはより幸福な人が多い社会である。
よって、多くの人類は、不幸な人を減らし幸福な人を増やすという進歩主義的命題のために善意を行っているのであるという考え方である。


以上、3つの理由が、私の知る限り、この問いに対してはある。まとめよう。
1.社会契約論 ⇒ 「信頼という社会契約を守るための接着剤として本能的に善意がある」
2.キルケゴールの「実存」論 ⇒ 「自らの幸せのために善意がある」
3.「ユートピア」論 ⇒ 「より善い世界(≒ユートピア)を目指す方法として善意がある」
よく見ると、1<2<3の順で、理性的になっていくことがわかる。
善意における議論は、まだほかにもあると思うが、このようなバックグラウンドから説明できることがわかっている。


ちなみに、この問題に対してはキルケゴール自身が認めている事からもわかる様に、不十分である。結論は出ていない。
更にこの問題を引き継ぐように論壇に上がるのはニーチェハイデッガーサルトルメルロ=ポンティという実存主義カテゴリーと称される人々である。
この問いをさらに続けるヒントを彼らは持っている。
キルケゴールは42歳という若さで命尽きる事になるが、彼らにはそれを引き継いだゆえの時間があった。
その結果として、彼らは等しく仏教にたどり着いている。
とりわけ、理知的であるとして親鸞歎異抄の評価は極めて高い。
西欧思想・キリスト教に絶望した彼らがたどり着いた先は東洋思想であった。


西欧の哲学から生まれた善意という議論は、その深遠なる議論を紡いだ先に、日本人にとってとても馴染みのある人物へとたどり着いている。
この議論を引き継ぐのは、もしかしたら日本人なのかもしれない。






合わせて読んでほしい私の記事。
世界は善意で出来ている。

希望の消えた国で。

現在、若い労働者の間で新型鬱なるものが増えていると言われている。
新型鬱とは、従来型の鬱とは違い、自己中心的な発想を持った鬱とされている。
例えば、従来型の鬱では、「私は何でこんなこともできないんだ?」「周りがイライラしているのは私のせいなんだ」「私なんかいなくなればいいんだ」という様な自己を必要以上に責めるという傾向がある。
ところが、新型鬱の場合は仕事がうまくいかないのは会社や上司のせいだとし、上手くいかないことを他者に求める傾向にあるとされている。


これだけを見ると、従来型の鬱に比べて新型鬱に関しては本当に病気であるのかどうかなど首をかしげてしまうかもしれない。
実際のところ、現実問題として色々な問題を引き起こしているようだ。
更には、よくわからないゆとり教育の弊害的な部分のみが強調された結果として、その様なものの弊害であるとされて、事態はいっそう意味の分からない状況になっていっているのが現状である。


しかし、よくよく考えると、会社や上司の恨み言や会社に行きたくないなどのテンションの下がり方は、中高年も持っている事に気が付く。
例えば、居酒屋で2〜3人のサラリーマンが飲んでいれば、どの年代であっても上司や会社の不平不満しか聞こえてこない。
また会社に行きたくないなどというのは、「サザエさん症候群」などの例からしても、日本社会においてはとても一般的な問題であるように思える。
私は、新型鬱に関しては、全く以て新型ではなく、全日本人、特に、一家の大黒柱として期待されているような中高年も含めた大多数の成人男性が罹っている国民病なのではないかと考えている。


しかし、ここにきて、その国民病が若者のみの発祥としてクローズアップされているのは何故なのだろうか?
私はこれは若い男性たちからある希望が失われてしまった結果だと考えている。


それは
「このまま、30後半以降まで座っていれさえすれば、2人の子供を私立大学に入れれるだけの収入になる」
という、大黒柱としての尊厳という希望である。


どれだけ、会社でごみごみ言われようと、家庭で粗大ごみと言われようとも、それでもこの尊厳は全ての労働をライフワークに変化させることができる尊厳であり、希望である。
男性は、自ら積極的に社会に関わらない限り社会性を持つ事は出来ない。
そういう意味で、労働というのはこの社会性を手に入れるもっとも簡単なものである。
しかも、この尊厳によって、すべての労働がライフワークに変わる。
だからこそ、過労死というのは一種の切腹のように、ある意味で散る美しさを持っていたのであった。


しかし、この希望はこの尊厳は様々な過程で打ち砕かれてしまったのである。


どの様に仕事をしていようと、会社がつぶれるときはつぶれるし、首になる時は首になる。
滅私奉公が給料の安定につながらない。
給料の向上への期待は、どんどんなくなっていく。
大黒柱としての尊厳は、年収の低下とともに坂道はおろかダストシュートを転げ落ちるがごとくである。
そう、多くのサラリーマンにとって、労働がライスワークに変わってしまったのである。
ライスワークで命を落とすほど/体を壊すほど働く事に対して、「散る美しさ・死ぬことと見つけたり」の美学を感じ取ることがあなたは出来るだろうか?


この問題は特に、子供や家庭を確立することが出来ていない若者に直撃する。
ある程度歳の行った中高年は、この様なメンタルハザードは、突然職が無くなる以外にはまずありえない。
しかし、若者にとっては、与えられる仕事ですら、このメンタルハザードを引き起こす。
目の前にある仕事は、ライフワークにはなり得ないのである。
全てはライスワークだ。運が悪ければ、愛する配偶者すら十分に支えることができない。
今、早婚化しているものの、子供が少ない現象が発生していると言われるが、これは完全にダブルインカムという安定を早々に確保しようという現れである。
明らかに、若者が生きる社会としての希望が消滅しようとしている。


若者は将来の希望であると言いながら、その若者に希望を与えられない国で起こっている悲劇を見て。
そうした上で、すべての人に問う。
我々が目指した社会とは果たしてこういう社会であったのだろうか?






合わせて読んでほしい私の記事
死ねない事がわかってしまった。
未来を奪い取る行為。

この頃少し不安な事。"蜘蛛の巣の生えたこのブログを復活させてみる。"

蜘蛛の巣の張り放題であったこのブログを復活させてみる。
いったい何人の人がまた戻ってきてくれるのかわからないけれども。
少し、書き溜めてたものもあるので、少しずつ放出してみようと思う。


実は、私はこの頃の日本に関しては少し不安要素が強くなってきたなと感じる事がある。
それは、やはり原発問題である。
去年の3.11以降、多種多様で様々な議論や意見が色々なところから飛び交っていた。
私も、この問題に関しては当時、言及している。


この問題に関して、ほのかな恐れを私は抱くようになってきている。
それは何故か?
それは、反対意見が1つに集約され始めているからである。
如何いうことであろうか?


本来反対意見というモノは、その人それぞれの立場に応じて受け入れられないものが異なっているために、多種多様な価値観の下で様々な反論意見が出来上がっていくのが一般的である。
その上で、その様々な反対意見・反論を前提とした1つの思想として組み上げていくのが最も筋が通っている。
これは、反対意見の集約というよりも、よりよい形・世界・表現を求める旅と言っても良い。
つまり、本当に優れた反対意見というのは、人によってかなり形が変わっているものの、多くの場合、現状よりも受け入れやすいものとなっているはずである。


しかしながら、現実の反原発の問題はどうも勝手が異なっている。
3.11以降あれだけ多種多様でまとまりの付かない反対意見が1つになろうとしている。
これは喜ばしい事なのだろうか?否である。何故か。
それは、3.11当時と比べて明らかに意見が急進化しているためだ。


当時は反原発という意見とともに、脱原発という意見があった。
だいたい、急進的意見と斬新的意見が作られるが、斬新的意見の方がより一般的には受け入れられやすい形となっているのが、この手の政治闘争では常である。
しかし、現実問題として、この脱原発という意見は論争の表舞台から姿を消している。


数多くおこなわれてきたデモなどを見ても明らかである。
何故か「原発反対!」「再稼働反対!」なのだ。
我々が求めていたものは果たしてそうだったのだろうか?私は違うと思う。
我々が求めていたものは、「平和な日常を復活させてほしい」という願いだったように思う。
結果が「原発反対!」なのだろうか?それは確かに可能性としてはあるが、本当にそれを当初から求めていたのだろうか?


政府における原発の問題は極めて厳しい状況にあると言わざるを得ない。
状況としては、原発という安全保障的問題よりも、財政という経済的問題の方が票が取れるあるいは、社会的に説明性が付くのではないかという判断からか、地方都市の経済発展(ただし、本当に社会経済の発展に寄与するのかは不明)重視のために原発推進の力が強いようだ。
それは、例えば、原発の再稼働とともに、最新型原発の建築推進(現在は、建築が経済的観点からストップされている)へ向かおうとしている事からも明らかである。
これは、火力発電に必要な石油価格の高水準維持と再生可能エネルギーの推進の難しさ、更にはサンドオイルなどの新しい化石燃料採掘の可能性による技術面での後位性(日本には埋蔵量や賦存量があまりないために、そもそも開発投資が少ない)による原子力技術の推進など多くの要素が複雑に絡み合っているのだろう。
現実問題としては、現状の流れの中では、すぐに脱原発に舵を切り、完全に原発を止めるのは不可能そうである。


この様な現実とのせめぎあいの中で、少し急進派が社会の変化の遅さにしびれを切らし始めているというのが、たぶん現状の脱原発闘争の流れであろうと思う。
結果として、彼らの発言をより急進化し、声を大きくしやすくすることで影響力を上げ、社会をドラスティックに変化させていきたいのだと思う。
しかし、果たしてそれは、本当に我々が望んでいたことなのだろうか?


反対意見が1つに急進化する形でまとまりを見せる時、必ずその問題は空中分解する。
それはどの様な歴史的な社会運動を見てもそうである。
例えば、フランス革命はまさしくその典型的例であると言える。


日本の社会において、このような政治闘争を多くの一般大衆を巻き込んだ形で1年以上同じ話で議論させ続けたという点においては、すでにこの反原発運動というのは歴史的意義を持ち始めていると思う。
こうした中で次に進むべき問題とは、結局「我々は何を求めていて、そして現実はどうなっているのかというのを冷静に見極めたうえで、感情に任せずに1つずつ議論をしていく"余裕"を持つことができるのかどうなのか?」というところまで来たように思われる。






合わせて読んでほしい私の記事。
3.11以降。
反原発論と原発容認論からみるパララックスとそこから浮かぶ“理性”と。
先進国で繰り広げられている最大の「人道危機」について。
我々はどこにいるのか?

My Philosophy.

全く手を付けていなかったブログだが漸く更新しようという気分になったので更新する。
これからは出来る限りブログを更新していく予定だ。
言ってしまったからには。。。頑張るしかないね。


この3カ月ぐらい、自分自身の哲学はどの様なものかをすごく悩んでいた。
正確には、それで自分としては納得するのか、外部的な説明性を如何つけるのかに悩み続けていた。
そして、出来れば、私の好きな哲学者の哲学に近いものがあればいいのにと思っていた。
そうしたら。。。あった。
どうやら、私にとって、世界で大事な哲学は5つしかないらしい。


1.私は何も知らない。無知の知ソクラテスプラトン
2.それでも私は、私が存在している事だけは知っている。(コギトエルゴスム:デカルト
3.そして、外部要件・外部要因に確実で信頼性のおけるものは何一つ存在しない。(絶対唯一神としての神は死んだ!:ニーチェ
4.それでも私たちは、自分自身の存在を規定するために、表現し続けなければならない。(およそ語りえる事は明晰に語りえる、論じえない事については沈黙しなければならない:ウィトゲンシュタイン


何のことはない。
私の好きな4人の哲学者によって、私の中の哲学の外部説明性が出来上がっていたのだ。
そうしたうえで、私の哲学を端的に言うのならば、以下のようになる。


5.Life is Art. Art is Life.
(人は自らを表現せずには生きていれないし、表現そのものがその人自身の世界を創り上げる)


これに気が付いた時は本当に何か安心した。
私の哲学の方向性は間違っていなかったんだと思った。
これで世界のすべてが過不足なく説明できたとは到底思えないが、少なくとも、人に提供できるレベルにはなった。
当然私は、この4人のほかにも好きな哲学者や惹かれる哲学者はいる。
例えば、ハイデガーは重厚で重層的で難解ではあるが、あれはかなり読みごたえがある。
ショーペンハウアーの世界観はとても広くて好きだし、アダム・スミス道徳感情論は納得できるところが多い。
東洋に至っては、老荘思想はとてもとても私の発想に親和性があって読んでて楽だし、儒学の良いところも知っている。


でも、その中でもかなり偏って好きだった4人の哲学者を並べてみたら、外部説明性になってしまったのは、拍子抜けもしたし驚いた。
ただ、やはり、彼らが歴史を作った哲学者であると私が評価している理由もわかった。
ただただ、納得した。


Life is Art. Art is Life.
我々は、表現し、創り出す。
人生にArtを。

新しいC案を作れるのがマイノリティの特権である。

多くの場面で、マジョリティの意見がマイノリティの意見を押しつぶしている。
時には、マイノリティな意見だからという理由で却下されることも多い。
ただ、私はこれには一応一理あると思っている。
「多くの人にとっての良いは"だいたい"正しい」からである。
ただ、問題なのは"だいたい"であって、ずれていたりピントが外れていたりすることもある。


そうした中で、マジョリティの意見をA案とし、マイノリティの意見をB案として色々と議論させてみる。
この際、マイノリティが頑張れば頑張るほど、多くの点でマジョリティの意見が強者の理論が発動している時が多いようだ。
その結果として、マイノリティの意見は弱者寄りであるともいえる。


往々にして、マイノリティの意見はマジョリティの意見に汲み取られることはない。
さらに言えば、基本的に踏みつぶされる状況にある。
これに気が付いている事を前提に人は2つの行動をとるのだろう。
1つは、マイノリティが意見を曲げてしぶしぶ従うという行動である。
一方で、マイノリティが「納得できない」と戦う場合がある。
私は、空気に支配されるぐらいなら戦った方が良いと考えている。
しかしながら、戦いしか方法を知らないのであればそれは間違っていると思っている。


マジョリティの意見は、多くの場合、多くの人の幸福を前提としている。
なぜそれがマジョリティの意見なのかといえば単純に、それ故に利益を享受する人数が多いからである。
マイノリティの意見が受け入れられない最大の理由は、それ故に利益を享受する人数が少ないように感じられるからである。
重要なのは、"感じられる"のであって、実際如何であるかが問題となっているのではない事だ。
そう考えていくと、マジョリティの意見も、「より多くの人が利益を受けると考えている人が多いから」マジョリティであるという事だ。
という事は、そうではないのだという事を明確に納得させれば良いのである。
ちなみにここで重要なのは説明ではない。納得である。


その様な視点に立った時、マイノリティは有利な立場にある。
なぜなら、マジョリティを"攻める"立場にあるからである。
しかし、戦いは選択してはならない。
なぜなら、「好戦的な相手の意見に納得できる人間は少ない」からである。
好戦的な相手の意見は、たとえ素晴らしいものであっても基本的には態度の硬化に繋がる。
そこで、マイノリティの基本戦略は、「自らの意見を取り入れた上で、あたかもA案に近いかのようなC案の作成」という事になる。
これが一番成功率が高いのではないだろうか?


マジョリティに耳を傾けさせること。
これが、マイノリティが最初にやらなければならない基本戦略である。

ネットの覇権は"国"が握れるのか。

1つ前の記事で、覇権について議論をした。
覇権とはいったいなんなのであろうか?
また、どうしたら覇権を握れるのか?という議論であった。
そうした中で、"道"という発想に至った。
現在は、陸と海の"道"だけである。
単純に輸送の問題であった。


現在はさらにここに情報という"道"がある。
ネットである。
これをに対して、多くの国が覇権を握ろうと苦慮していることがよくわかる。
ネットはあまりにも大きすぎて、現状はコントロールが効いていない。
多くの事柄が、国ではネットをコントロールできないのではないか?という疑問がわいてくる。
エジプトやリビア・またはすぐ近くのイギリスの例を出すまでもない。


覇権を握る上で重要な事がある。
それは、"道"自体の運動性を制限した国家は、覇権を手放すことになるという事である。
いうならば、「自由を守る」という大義名分故に、"道"の支配権を間接的に利用者から認められるのである。
つまり、「自由を守る」のでない限りは、そこにいる有機的な繋がりに対して、利益を与える事が出来ないのだ。
ちなみに、大英帝国の凋落はまさに、自由貿易からブロック貿易への変化に従って顕著になったのであった。
これは、国の力の凋落とはまさに鶏と卵の関係である。
国の力が落ちてきたが故に、自分が守れる範囲を「制限」する必要が出てくる。
「制限」された自由は、覇権を手放す強力な理由となる。
そうして負のスパイラルが出来上がるのだ。


多くの国がネットに「制限」をかけようとしている。
すでに中国は制限がかかっているし、日・英でも制限されようとしている。フランスでも同じような動きがある。
これは、裏を返すと、「ネットの自由が認められるほど、その国の支配力は強くない」という事に他ならない。
弱いが故に、コントロールできる範囲を定めて、その部分だけ支配権を得ようとしているのだ。
これは、植民地主義的発想と酷似している。
ちなみに、植民地主義を掲げた国のすべてが覇権を握ることが出来なかった。


結局、人間にとっての最大の大義名分は「自由を守る」ことなのである。
そうしたうえで、私は現状の力の衰えた国というコミュニティが、ネットの覇権を握る事は出来ないのではないかと考えている。
もしかしたら、ネットを支配することが覇権を握る事にはならないのかもしれないが、そうなった場合、ネットのコミュニティに何らかの影響を与えられる国は存在しないだろう。
それを国がはっきり認識できたとき、国の寿命は尽きるのかもしれない。