覇権について少し考えてみる。

覇権。それは圧倒的な力を持つことである。
どのくらい圧倒的かといえば、1位の力が2位と3位を合わせても勝てない状況が一般的には上げられる。
覇権を握っていたとされる国々は世界にはいくつか存在する。
例えば、チンギス・ハーンモンゴル帝国や最盛期のオスマン・トルコ、そしてパクス・ダッチやパクス・ブリタニカという言葉もある。
今回は、覇権に対して"何を握っていたのか"という問題に焦点を当ててみる。
そこで重要なのは、私は"道"であると考えている。
しかし、この"道"は人類が発展していく段階で徐々に変化していたのであった。


まず、最初の"道"は陸上の道路である。
とりわけ、ユーラシア大陸において最も覇権に対して重要な道はシルクロードであった。
そして、ここを最大限まで制圧した国はモンゴル帝国である。
世界史史上、モンゴル帝国より大きくなった国はないといわれている。
このシルクロードを制圧することに成功したモンゴル帝国は、一大覇権を握りしめたのであった。


次の"道"は海上であった。
これを完全に握ることに成功したのは、イギリスである。
当時は大英帝国といわれていた。
彼らの力によって、海の平和は保たれ、自由な交易が可能となったのであった。
最盛期は、必要不可欠な要地だけを属領とし、植民地などをほとんど作らないという、完全自由主義を貫いていたのだった。
それの名残は今でも残っていて、例えばスペインのジブラルタルはいまだにイギリス領であるし、シンガポールはイギリス植民地の影響が極めて強い。


次の"道"は空であった。
と言いたいところだが、実は空はあまり重要ではなかった。
この時に覇権を握っていたのはアメリカである。
空がなぜあまり重要ではなかったかというと、人や物を輸送するのに、陸や海の輸送量やその簡易さに追いつかなかったからである。
結局、アメリカの軍事行動が海軍や空母を中心とした一個小隊をベースに考えられる点からも、海上の覇権は極めて重要であり、またそれが逆に空よりも海の方が重要度が高い事を示しているのである。


この様に、輸送を中心とした"道"を制圧することが、そのまま覇権を握ることに繋がったのである。
ただこれは、"道"を制圧するほどに強大な国であった=覇権を握っていたともいえるため、卵と鶏の理論なのかもしれない。
ただ、現状として海上交通やその貿易に対して、どの国が最も影響力があるのか?を考えると、次に来る覇権国を容易に予想できるのではないだろうか。
この様な視点と指標は非常に示唆的である。

NPOは稼がなければならない。

非営利団体NPO
それは一般的にはかなり特殊であると考えられている。
基本的に無償労働を前提とし、自分がやりたいことと社会の要請が一致した時に初めて行動として成り立つ不思議な存在。
ボランティアにも似た存在。
その様に思っている人々が多いのではないだろうか?
実際はかなり異なる。


まず、やっていることの多くは、株式会社でやっているようなことと全く変わらない。
という事は彼らは仕事をしているわけである。
それにもかかわらず、無償労働をしているとはどういう事だろうか?
実は、彼らは無償労働しているわけではない。
例えば、地方自治体からの交付金などの補助金(税金)や善意ある人々からの寄付によって活動が成り立っていることが多い。
その結果として、NPOの提供しているサービスをかなり廉価な価格で受け取る事が出来るのである。
彼らの活動を私は非常に重要であると考えている。


そうした中で、多くの先進国が赤字財政に苦しんでいる。
このままでは、NPOなどの有意義な活動を支援するための補助金も仕訳対象となり、どんどん減らしていくだろう。
NPOの存在を保証してくれる補助金はどんどん目減りしていくのである。
また、一方で、多くの株式会社は、更なる利益追求を求めて、ニッチな産業よりもさらにメジャーな産業に目を向けるだろう。
ニッチな産業などを埋める事が出来なくなった社会においては、更にNPOなどのコミュニティを必要とする場面は増えていくだろう。


つまり、NPOは需要は増えるが、存続の保証がなくなっていくという、じり貧確定な組織であるといえる。
需要があるのに利益が上がらないのはなぜかといえば、多くの人がNPOは利益が必要ないボランティア団体の一種のようにとらえているからである。


だからこそ、NPOは利益を追求する必要がある。
それは、自らのサービスの高さを保証し、自らの価値を証明し、そして存続を揺るぎないものとする。
もし、自分たちのNPOが社会に本当に利益を与えていると確信をするのであれば。
なおの事、そういったプライドのあるNPOほど利益を追求しなければならないのである。

世界は善意で出来ている。

私は楽観主義者なのかもしれない。
私はかなり無頓着に、世界の95%以上が善意で出来上がっていると考えている。
当然すべてではないと考えているが、それでも、ほぼ全てが善意であると思っている。


誰かが「善かれ」と思ってやること。行動したこと。
それによって生まれたこの世界。それは善意の塊だと思う。
確かに、例えば金儲けのために戦争をする等という断固拒否すべき行為をとる人間たちもいる。
また、自分の主義主張を通そうとするあまり、強烈な暴力に訴えでる人々もいる。
それもまた事実である。


しかし、私はそのような人々こそが少数派であることを信じている。
これは説明できることではない。信じている事なのだ。
日本の町並みにはゴミが少ないといわれている。
これは、ゴミを道端に捨てないという善意の現れである。
ある人は、自分の稼ぎを削って寄付をしたりする。これはわかりやすい善意である。
他にもちょっとした事を通じてたくさんの善意を日常から感じる事が出来る。
社会のあらゆるところから善意を感じ取る事が出来るのである。


しかし、その善意の塊である社会ですら欠陥がある。
多くの人が「善かれ」と思って行動していても、どこかしらで欠陥が生まれてしまう。
非常に悲しい事だが、これもまた事実である。
未だ、人類すべてが幸福な状態になっていることはまったくもってない。
世界のどこかでは、苦しんでいる人々がいる。
世界でも素晴らしく発展してきた日本にすら苦しんでいる人々がいるのである。


それでも、私は思うのである。
今ある世界が、今の人間たちの最上なのだと。
善意という最上位の人々の善き心が生み出した結果なのだと。
2005年以降、発展途上国貧困率は低下している。
また、徐々にではあるが、すべての子供たちに初等教育を!という掛け声は現実に進みつつある。


そしてそのうえで、まだ改善しなければならない部分がたくさんあるのだ。
私はこの状況は極めて喜ばしい事だと思っている。
更なる善意が必要なのだとも思うし、更に善い社会を作り上げることが我々が現在を生きる使命となっている。


それを前提として我々が最も持たなければならない善意とは「より善い社会を作り上げる必要がある」というコンセンサスに似た善意である。
数多くの課題がある。という事は、まだまだ私たちの社会はアップグレードするという事を意味している。


更にアップグレードした社会とはどの様な社会なのであろう。
また、どの様な人々が幸せを得る事が出来るのだろう。
私はその様な幸せを拡大する人々とともに行動していきたいし、その様な善意を多く生み出せる1人の人間になっていきたいのである。

価値は普遍なものではない。

価値とは普遍なものではない。
価値とは与えられるものではない。
価値とは降ってくるものでもない。
価値とは自らが定めるものである。


価値を決定づけるものは自らの意志である。
これはすべての事柄に言える。
人が好きになるものすべてが、自らが作り出した価値によってその"好き"は支えられている。
例えばスポーツは非常にわかりやすい。
サッカーがとても好きな反面、野球には全く興味がなかったりする。
これは、彼の中で、サッカーにしか価値を見出してないのである。
野球には無意識のうちで価値を見出すことが出来なかったのである。


そして重要なことであるが、価値とは人に与えられるものではない。
誰かに勧められて、あるものを買っても意外と好きになれなかったり使えなかったりする。
これは、自ら価値を見出すことに失敗した例である。
確かにその勧めた人間にとっては極めて価値のあるものだったのだろう。
しかし、勧められた人間にとっては価値がなかったのである。
このように、価値があるかどうか、それを好きになるかどうかはその人自身にかかっている。


しかしながら、これを外部要因的にコントロールする事が出来る。
それは「他人と一緒は心地がいい」というものである。
他人と価値観を共有する事自体に価値を見出しているという事だ。
これに来て、初めて「誰か他人に勧められるものに価値を見出す」事が出来る。
実際のところ、そのもの自体には何ら価値を見出していなかったりするのだが、例えば属するコミュニティなどに影響を受けて、価値がある事を自らに説得するのである。
ちなみに、これは営業手法に似ている。
営業マンの言葉には説得されないが、自分の言葉には説得されるのである。
なので、営業マンは自分のロジックを説明せずに、相手に自分と同じロジックを構築させるのである。
そうすると、自らに説得されて、人はものを購入することになる。


これを多くの場合は価値の創造と呼ぶ。
誰かが持っているから素晴らしいのだろうというコミュニティ意識を作り上げる。
または、「これは価値のあるものなのだ!」と相手に思わせる必要がある。
環境問題や貧困問題はまさにこれに近い。
いかに価値を創造できるかが勝負となる。


翻って、人は弱いものである。
独りで生きていくことは不可能だ。
そうした中で、他人と同じであることを求める時もある。
価値の創造とはそのような過程の中で必然的に生まれてくるものなのかもしれない。

未来を奪い取る行為。

アメリカやイギリスが、「日本化」している・・・
そのような声が聞こえ始めている。
しかし私は、先進国は10年以上も前から行き詰っていたと考えている。
理由は若年労働層の失業率に端を発している。


多くの先進国の若年労働層は職を得ていない。
日本においては10%ほどが失業しているといわれているが、これは再就職先を探している若者のみが当てはまる。
この2倍以上が実質の失業率であろうとも言われている。
20%とすると5人に1人が失業者である。恐ろしい話だ。
30〜40人ひとクラスだった小学校時代。
同窓会をやると、6〜8人が職を得ていない時代なのである。


そして、仕事をする事に希望を見いだせない人々がたくさんいる。
まさにその通りだ。仕事自体が希望を運んでくれることはなくなったのである。
30年前40年前は仕事自体が希望だった。
右肩上がりは約束されていた。
どんな事があってもその職にしがみ付けば、しがみ付く事こそが希望だった。


しかしその希望は崩壊しているのである。
もはや雲をつかむようだ。
つかんだと思ったらつかんでいない。希望は手に入らなくなった。
希望は外部からはやってこない時代となったのである。
まさに個人の時代である。
個人主義の時代とは希望が与えられない時代である。


外から希望が与えられなくなっても人は生き続けなければならない。
そのため、我々は希望を自ら作り出す必要が出てきたのである。
希望を作り出す。主にそれはハリボテの希望だ。
誰に支えられているわけでもなく、誰に保証されているわけでもなく、自分自身で保証しなければならない。
そのために、今まで以上にその希望を支えなければならないし、その希望を信じる必要がある。
自分を信じる強い心が必要なのである。


問題はその希望は果たして何なのかという事だ。
それは私は未来であると思っている。
ところが、現状のシステムは未来を破壊し、現状を維持するために多大なコストが支払われている。
これが、現実と理想の最大のギャップであり壁になっている。
正確に言えば、未来を現実が食いつぶしている。
何がここまで世界を食い潰しているのだろうか?
私自身、時折、強烈な閉塞感を感じる事がある。
この閉塞感はどこからやってくるのだろうか?
若者から未来を奪い取っている本当の相手はいったい誰なのだろうか?

ネットが国家に規制されるという事。

ネットが国家に規制されていく。
イギリスは先日から続く暴動の余波で、SNSの監視やその行動を制限する方向に進んでいるようだ。
前回の記事であったように、日本でも同じように規制が進んでいる。
元々ネットを規制している中国はともかく、イギリスや日本のような先進国で制限が進むというのはどういう事なのだろうか?
更に、フランスやアメリカでも一部そういう動きが出ていると聞く。


国家 VS SNS
まさか、私はこの二つが対立関係を作るとはほとんど想像していなかった。
いうならば、同じフィールドに立つことはないのではないだろうか?と考えていた。
しかし、現実は明らかに対立関係となっている。


よくよく考えてみると、確かにこの2点はどちらもコミュニティであるという点で極めてよく似ている性質を持つ。
どちらも居場所を確保を与えてくれるものである。
国家は物理的な居場所、すなわち「国籍」を与えてくれる。
世界で最も信用性の高い、個人を説明するものの1つである。
SNSはコミュニティに所属しているという点で、居場所を提供する。
いうならば、心理的な居場所を提供するのである。


本来ならば国家は、世界最大単位のコミュニティであったのは明らかである。
国民国家成立によってそれはさらに強化されたのである。
どの様な他のコミュニティであろうと、これよりか大きくなるようなコミュニティは存在しえなかったのだ。
ところが、近代国家成立後初めて、その最強最大のコミュニティとしての国家を脅かすものが現れたのである。
それが、SNSであったというのが、今回の事の顛末であろう。


これには、先進国自身の求心力や権力・国力の相対的な低下もSNSの力の向上の一助となっているのだろう。
BRICSやアジアNIESの台頭が、今までの欧米世界の画一支配を揺るがしている。
更に、日本と同じような慢性的な赤字財政は、十分なリーダーシップを発揮できていない。
大統領システム・民主主義システムのどちらも、この問題を真に解決できていないのだ。


これは、1つの組織がコントロールできないほどの社会的コミュニティが生まれてしまったってことなのであろう。
国家としては、ネットを自由に遊ばせておく事は出来ず、規制する程度の力しか持ち合わせていないのだろう。
もし、本当に国家に力があるのであれば、SNSは規制しないだろう。
規制とは弱体化の象徴であった。
例えば、大英帝国の覇権崩壊は、航海の自由を禁止することから始まった。
自由を認めるというのは、力関係が明らかである時に初めて維持できる出来る事なのである。
力が衰え始めると、自由を維持させる事は出来ず、コントロールしようとし始めるのだ。
何故ならば、そちらを選択した方が維持コストを落とす事が出来るからである。


しかし、歴史は制限をかけ始めた旧世界のシステムは、新世界のシステムに蹂躙され尽くすのが明らかになっている。
今後、国家は衰退し、あるいは解体に向かうのだろうか?
そう簡単に解体という流れには向かわないと考えてはいるが、現状の旗色は非常に危うい。


しかし、なぜ、SNSと国家が争わなければならないのだろうか?
私にとってはそこが、この問題の最大の疑問であり、そして最大のキモであると考えている。

ネットの活動家が得たもの。

TwitterSNSの監視法律が出来るのではないかと多くの人がヤキモキしているようだ。
これを「コンピュータ監視法」と呼ぶ。
1月の段階で法案が成立していて、知っている人はこの時からかなり強く意識していたようだ。
それが4月11日に閣議決定されたもので、実はすでに「コンピュータ監視法案」(情報処理の高度化等に対処するための刑法等の一部を改正する法律案)が6月17日可決成立している。
この問題に対して、震災やその後の原発関連のドサクサによって多くの大手メディアやジャーナリストはこの法案にかまけている暇はなかったようである。


これに関しては、インターネットの治安維持法とも言われている。
実際、やろうと思えば相当やりたい放題である。
法案の格子は以下の3つだ。
1、コンピュータ・ウイルスを作成・取得で罪になることもある。
2、捜査機関が裁判所の令状なしで証拠が保全できる。
3、ゲームやアニメなどを含むわいせつ物基準の広範化につながる。


この法案を作った人はかなりコンピュータについてよく知らないのだろう。
コンピュータ上にウィルスなど存在しない(悪意あるソフトウェアがあるだけである)。
ソフトウェアの作成に関してはどこまでの範囲を指すのかよくわからない(最悪Exeファイルが作れるメモ帳を開いただけで作成である)。
取得もよくわからない(最悪、メールサーバーのごみ箱に入っていても取得である)。
1ですらこの有様である。
ただ、この辺りは私が主張したいことではない。


ネットが現実を動かしうるのか?という議論は広範囲に広がっている。
ネットというツールが我々の行動を変化させているのは間違いない。
しかし、それを持って現実が動いたというのはなかなか難しい議論である。
ただ、この法案に関しては明らかにネットの活動家たちが得た1つの現実の変化だと私は思う。


なぜこの様な法律を作ったのか。あるいは作らざるを得なかったのか?
それは、現実がネット社会に恐れをなしたからである。
人間はある恐怖に対する最初の行動は2つに限られる。
1つが拒絶であり、もう1つが破壊である。
力が無いものはそこに目を向けないように拒絶する。
力があるものは、それの存在を認めない。破壊する。
多くの独裁者が、自分のライバルたちを暗殺し続けたのは、恐怖感だ。
その結果、そのライバルたちを破壊し殺したのである。
それとまさに一緒である。


つまり、この法律が出来上がった背景には、ネット社会の発言力や力が、弱いながらも現実を脅かす存在になりつつあるということ。
そして、それ故に、現実世界が恐れをなしてネット社会を破壊しに来たのだということ。
何のことはない、ネットの活動家・言論家が手に入れようとしてきた力を手に入れた証拠なのである。
ただ、非常に逆説的ではあるが。


この法律が果たして本当に力があるものなのか、ないものなのかに関しては、実はネット社会自体にかかっている。
この法律に負けた時にネット社会に力があったのだという証拠になる。
逆に言えば、この法律など「あっても無駄だ」と思わせるほど、今までと同じ活動をしていればいいのである。
無数の活動を1つの組織が上からの力でねじ伏せる事など不可能であることは歴史が証明してくれている。
ネット社会の言論の数はそれを大幅に上回る。
負けるはずがないのだ。正確に言えば、ネット社会において現実社会は「ネット社会に入り込んだ瞬間」に勝ち目がなくなるのだ。
もし、本気で現実社会がネット社会を破壊しようとしたいのであれば、すべてのサーバー管理会社のサーバーをブルドーザーで破壊すればいい。
そして、ネットワークを物理的に全てカッター等で切断すればいいのである。


なんにせよ、現実社会は勝ち目のないゲリラ戦に突入する事になる。
驚くべきことに、ネット社会は現実社会を変えているのである。