世界は善意で出来ている。

私は楽観主義者なのかもしれない。
私はかなり無頓着に、世界の95%以上が善意で出来上がっていると考えている。
当然すべてではないと考えているが、それでも、ほぼ全てが善意であると思っている。


誰かが「善かれ」と思ってやること。行動したこと。
それによって生まれたこの世界。それは善意の塊だと思う。
確かに、例えば金儲けのために戦争をする等という断固拒否すべき行為をとる人間たちもいる。
また、自分の主義主張を通そうとするあまり、強烈な暴力に訴えでる人々もいる。
それもまた事実である。


しかし、私はそのような人々こそが少数派であることを信じている。
これは説明できることではない。信じている事なのだ。
日本の町並みにはゴミが少ないといわれている。
これは、ゴミを道端に捨てないという善意の現れである。
ある人は、自分の稼ぎを削って寄付をしたりする。これはわかりやすい善意である。
他にもちょっとした事を通じてたくさんの善意を日常から感じる事が出来る。
社会のあらゆるところから善意を感じ取る事が出来るのである。


しかし、その善意の塊である社会ですら欠陥がある。
多くの人が「善かれ」と思って行動していても、どこかしらで欠陥が生まれてしまう。
非常に悲しい事だが、これもまた事実である。
未だ、人類すべてが幸福な状態になっていることはまったくもってない。
世界のどこかでは、苦しんでいる人々がいる。
世界でも素晴らしく発展してきた日本にすら苦しんでいる人々がいるのである。


それでも、私は思うのである。
今ある世界が、今の人間たちの最上なのだと。
善意という最上位の人々の善き心が生み出した結果なのだと。
2005年以降、発展途上国貧困率は低下している。
また、徐々にではあるが、すべての子供たちに初等教育を!という掛け声は現実に進みつつある。


そしてそのうえで、まだ改善しなければならない部分がたくさんあるのだ。
私はこの状況は極めて喜ばしい事だと思っている。
更なる善意が必要なのだとも思うし、更に善い社会を作り上げることが我々が現在を生きる使命となっている。


それを前提として我々が最も持たなければならない善意とは「より善い社会を作り上げる必要がある」というコンセンサスに似た善意である。
数多くの課題がある。という事は、まだまだ私たちの社会はアップグレードするという事を意味している。


更にアップグレードした社会とはどの様な社会なのであろう。
また、どの様な人々が幸せを得る事が出来るのだろう。
私はその様な幸せを拡大する人々とともに行動していきたいし、その様な善意を多く生み出せる1人の人間になっていきたいのである。