価値は普遍なものではない。

価値とは普遍なものではない。
価値とは与えられるものではない。
価値とは降ってくるものでもない。
価値とは自らが定めるものである。


価値を決定づけるものは自らの意志である。
これはすべての事柄に言える。
人が好きになるものすべてが、自らが作り出した価値によってその"好き"は支えられている。
例えばスポーツは非常にわかりやすい。
サッカーがとても好きな反面、野球には全く興味がなかったりする。
これは、彼の中で、サッカーにしか価値を見出してないのである。
野球には無意識のうちで価値を見出すことが出来なかったのである。


そして重要なことであるが、価値とは人に与えられるものではない。
誰かに勧められて、あるものを買っても意外と好きになれなかったり使えなかったりする。
これは、自ら価値を見出すことに失敗した例である。
確かにその勧めた人間にとっては極めて価値のあるものだったのだろう。
しかし、勧められた人間にとっては価値がなかったのである。
このように、価値があるかどうか、それを好きになるかどうかはその人自身にかかっている。


しかしながら、これを外部要因的にコントロールする事が出来る。
それは「他人と一緒は心地がいい」というものである。
他人と価値観を共有する事自体に価値を見出しているという事だ。
これに来て、初めて「誰か他人に勧められるものに価値を見出す」事が出来る。
実際のところ、そのもの自体には何ら価値を見出していなかったりするのだが、例えば属するコミュニティなどに影響を受けて、価値がある事を自らに説得するのである。
ちなみに、これは営業手法に似ている。
営業マンの言葉には説得されないが、自分の言葉には説得されるのである。
なので、営業マンは自分のロジックを説明せずに、相手に自分と同じロジックを構築させるのである。
そうすると、自らに説得されて、人はものを購入することになる。


これを多くの場合は価値の創造と呼ぶ。
誰かが持っているから素晴らしいのだろうというコミュニティ意識を作り上げる。
または、「これは価値のあるものなのだ!」と相手に思わせる必要がある。
環境問題や貧困問題はまさにこれに近い。
いかに価値を創造できるかが勝負となる。


翻って、人は弱いものである。
独りで生きていくことは不可能だ。
そうした中で、他人と同じであることを求める時もある。
価値の創造とはそのような過程の中で必然的に生まれてくるものなのかもしれない。