人は何故他人に善意を施すのか?という問いについての過去の議論をおさらいする。

何故、人は他人に対して善意を施すのだろうか?
何故、人は善い事をしようと考えるのだろうか?


実はこの問いはかなり大昔からの哲学のテーマでもある。
中世を超えて、プラトンアリストテレスの時代までさかのぼることも可能だ。
もっと言ってしまえば、もしかしたら「埋葬の文化」が現れ始めた時代までさかのぼるのかもしれない。
確かに、死体はそれが痛むことによって伝染病の中心地となってしまうため、それから避ける必要があったという公衆衛生学的な見地は重要であるものの、同時にその死体が埋められた場所に花を添えるというのはどの様な心理的なポイントがあるのだろうか?という「埋葬の文化」である。
明らかにその「埋葬場所に花を添える」というのは、故人を偲ぶという一種の善意であることは間違いないのではないだろうか。


さて、この善意を何故行うのか?という問いに関しては現在、私が知る限り3つの分野で、ある程度の回答が得られている。少し紹介していこうと思う。


1.社会学的見地からの「社会契約論」
日本人は何故か忘れがちだが、まずこの議論は極めて大きかったように思える。
中心人物はやはりルソーと言えるだろう。
実際の起こりはホッブズリヴァイアサンであった。
人は社会性を持たない限りは生存することが不可能であるという前提の下、ではその社会の在り方として何を志向するかというものがこの議論のポイントである。
ここで提唱された考え方として「あなたは私を傷つけないという最低限の信頼が担保されなければ社会を維持することができない」と考えたのであった。
これは法学的統治論では非常に重要なことであり、最古の法体制と言われるハンムラビ法典の中にも「目には目を、歯には歯を」という前提があった。
これを、信頼性という部分に注目すると、前述の「貴方は私を傷つけないという最低限の信頼が担保されなければ社会を維持することができない」というものとなる。
ここから少し発展すると「何故人は善意を他人に施すのか?」と言えば「貴方の事を信頼しています」という積極的な証となるという事である。
つまり、右手で手を差し出さないと失礼にあたるのと一緒である。
(ちなみに、握手というのは効き手で両者行う事によって、腰に差したサーベルを互いに抜くことができなくなる。そういう点で、右手を差し出すという事は危害を加えないというボディランゲージとなる。これは日本でいうところのお辞儀と一緒である。)
この様に、「社会契約論」的に言うならば、
「信頼という社会契約に基づく社会システムを守る必要性から、善意というモノが希求されており、人間はそれを社会性が無いと生きていけないという必然性から善意を行っていく」
という、ある種の運命論的・本能的な発想がそこにはある。


2.キルケゴールの哲学的見地より「3つの"実存"論」
善く生きるという問題であるならば、哲学的見地を忘れてはいけないと私は思っている。
そうした中で、とりわけ社会的善意に注目した哲学者は数多くいたが、私はここではキルケゴールを挙げたいと思う。
キルケゴールの3段階に及ぶ「実存」論である。
ここでは、特に第2段階目の「倫理的実存」というものに注目しよう。
その前にキルケゴールの3段「実存」論を少し整理する。
1段階目は「美的実存」と言い、言うならば己のみの欲求・善(例:お腹すいた・お金持ちになりたい・楽がしたいなど)の追求である。
これは追求していくと刹那的な幸福を求めるようになり、その様な幸福状態はすぐに消え去る不安定なモノなので幸福な人生とは呼べないという結論をキルケゴールは出している。
2段階目は「論理的実存」と言い、言うならば他者との関係の中での道徳などの社会的善の下に己の存在を規定していくというモノである。
これは例えば、ボランティアなどを通じての感謝や、社会的道徳に従った生き方などによる心の満足度というモノは、1段階目の快楽・幸福から来る不安定さや罪悪感に対してより幸福状態を維持できると考えたのである。
しかし、この幸福も「ここまでやったらこのようなリターンが得られるはずだ!」という善意の強要が生まれてしまう上に、善なる心の動き(≒良心)に敏感となってしまった結果、その様な心の動きに対して罪悪感や絶望が浮かび上がってしまい、不十分であるとキルケゴールは結論付けている。
3段階目は「宗教的実存」と言い、1段階目と2段階目の不安や絶望という不幸な状況に対して積極的に受け入れる器を手に入れる必要があるという心の問題に移行している。
すなわち、キルケゴールとしては、態度や行動などによって幸福が手に入るのではなく、メンタリティをどのようにバランスとっていくかが人生の幸福であると考えたわけである。
いわば、質的向上を図るというよりも、質的変換を図るというイメージであろう。
とはいえ、キルケゴール自身もここから先に関しての議論は不十分であることを認めている、非常に難解な議論となっている。
今回はこの3段「実存」論を説明することが議題ではない。
一度この問題の説明は後に置くことにする。ポイントは何故人が善意を施すのか?という問題である。
これは見ればわかると思うが、まさに「論理的実存」において端的に説明されている。
つまり
「それをやったら自らが幸せになるから」
である。
ただし、それには少しだけ条件が付けられていて
「他人からのある程度(ここには個人差が発生する)の評価」
もポイントになってくることをキルケゴールは明確に気が付いている。


3.進歩主義的な空想的共産主義者たちの「ユートピア論」
近代思想の祖であるとされるデカルトは「コギトエルゴスム」とともに「絶対唯一神としての神は死んだ!」と代表作である「方法序説」の中で叫んだ。
しかし、その一方で「人類は進歩を求めており、その進歩した姿としての何かを神と呼ぶのであれば、神は復権する」とも説いている。
近代主義思想とは、進歩主義思想の急進化というカタチでもあらわれていたという点で極めて西欧的な考え方なのであろう。
その進歩主義思想はセント・アウグスティヌスから始まり、トマス・モアを経由した「ユートピア」思想にも入り込んでいく。
そして、社会的には資本主義の弊害とともに生まれつつあった共産主義的思想と融合し、空想的共産主義マルクスが称した思想へと移行していく。
この過程で、資本主義の進歩した形としての共産主義という進歩主義的な視点が入り込んでいく。
こうした中で、新しい世界としての共産主義の中で善意は理性的な問題として取り扱われていく。
進歩主義と理性的な善意が紡ぎだす善意を行う理由とは、
「より善い社会を目指す結果として人類は善意を行っている」
というモノである。
より善い社会とはより幸福な人が多い社会である。
よって、多くの人類は、不幸な人を減らし幸福な人を増やすという進歩主義的命題のために善意を行っているのであるという考え方である。


以上、3つの理由が、私の知る限り、この問いに対してはある。まとめよう。
1.社会契約論 ⇒ 「信頼という社会契約を守るための接着剤として本能的に善意がある」
2.キルケゴールの「実存」論 ⇒ 「自らの幸せのために善意がある」
3.「ユートピア」論 ⇒ 「より善い世界(≒ユートピア)を目指す方法として善意がある」
よく見ると、1<2<3の順で、理性的になっていくことがわかる。
善意における議論は、まだほかにもあると思うが、このようなバックグラウンドから説明できることがわかっている。


ちなみに、この問題に対してはキルケゴール自身が認めている事からもわかる様に、不十分である。結論は出ていない。
更にこの問題を引き継ぐように論壇に上がるのはニーチェハイデッガーサルトルメルロ=ポンティという実存主義カテゴリーと称される人々である。
この問いをさらに続けるヒントを彼らは持っている。
キルケゴールは42歳という若さで命尽きる事になるが、彼らにはそれを引き継いだゆえの時間があった。
その結果として、彼らは等しく仏教にたどり着いている。
とりわけ、理知的であるとして親鸞歎異抄の評価は極めて高い。
西欧思想・キリスト教に絶望した彼らがたどり着いた先は東洋思想であった。


西欧の哲学から生まれた善意という議論は、その深遠なる議論を紡いだ先に、日本人にとってとても馴染みのある人物へとたどり着いている。
この議論を引き継ぐのは、もしかしたら日本人なのかもしれない。






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