ネットが国家に規制されるという事。

ネットが国家に規制されていく。
イギリスは先日から続く暴動の余波で、SNSの監視やその行動を制限する方向に進んでいるようだ。
前回の記事であったように、日本でも同じように規制が進んでいる。
元々ネットを規制している中国はともかく、イギリスや日本のような先進国で制限が進むというのはどういう事なのだろうか?
更に、フランスやアメリカでも一部そういう動きが出ていると聞く。


国家 VS SNS
まさか、私はこの二つが対立関係を作るとはほとんど想像していなかった。
いうならば、同じフィールドに立つことはないのではないだろうか?と考えていた。
しかし、現実は明らかに対立関係となっている。


よくよく考えてみると、確かにこの2点はどちらもコミュニティであるという点で極めてよく似ている性質を持つ。
どちらも居場所を確保を与えてくれるものである。
国家は物理的な居場所、すなわち「国籍」を与えてくれる。
世界で最も信用性の高い、個人を説明するものの1つである。
SNSはコミュニティに所属しているという点で、居場所を提供する。
いうならば、心理的な居場所を提供するのである。


本来ならば国家は、世界最大単位のコミュニティであったのは明らかである。
国民国家成立によってそれはさらに強化されたのである。
どの様な他のコミュニティであろうと、これよりか大きくなるようなコミュニティは存在しえなかったのだ。
ところが、近代国家成立後初めて、その最強最大のコミュニティとしての国家を脅かすものが現れたのである。
それが、SNSであったというのが、今回の事の顛末であろう。


これには、先進国自身の求心力や権力・国力の相対的な低下もSNSの力の向上の一助となっているのだろう。
BRICSやアジアNIESの台頭が、今までの欧米世界の画一支配を揺るがしている。
更に、日本と同じような慢性的な赤字財政は、十分なリーダーシップを発揮できていない。
大統領システム・民主主義システムのどちらも、この問題を真に解決できていないのだ。


これは、1つの組織がコントロールできないほどの社会的コミュニティが生まれてしまったってことなのであろう。
国家としては、ネットを自由に遊ばせておく事は出来ず、規制する程度の力しか持ち合わせていないのだろう。
もし、本当に国家に力があるのであれば、SNSは規制しないだろう。
規制とは弱体化の象徴であった。
例えば、大英帝国の覇権崩壊は、航海の自由を禁止することから始まった。
自由を認めるというのは、力関係が明らかである時に初めて維持できる出来る事なのである。
力が衰え始めると、自由を維持させる事は出来ず、コントロールしようとし始めるのだ。
何故ならば、そちらを選択した方が維持コストを落とす事が出来るからである。


しかし、歴史は制限をかけ始めた旧世界のシステムは、新世界のシステムに蹂躙され尽くすのが明らかになっている。
今後、国家は衰退し、あるいは解体に向かうのだろうか?
そう簡単に解体という流れには向かわないと考えてはいるが、現状の旗色は非常に危うい。


しかし、なぜ、SNSと国家が争わなければならないのだろうか?
私にとってはそこが、この問題の最大の疑問であり、そして最大のキモであると考えている。