ネットの覇権は"国"が握れるのか。

1つ前の記事で、覇権について議論をした。
覇権とはいったいなんなのであろうか?
また、どうしたら覇権を握れるのか?という議論であった。
そうした中で、"道"という発想に至った。
現在は、陸と海の"道"だけである。
単純に輸送の問題であった。


現在はさらにここに情報という"道"がある。
ネットである。
これをに対して、多くの国が覇権を握ろうと苦慮していることがよくわかる。
ネットはあまりにも大きすぎて、現状はコントロールが効いていない。
多くの事柄が、国ではネットをコントロールできないのではないか?という疑問がわいてくる。
エジプトやリビア・またはすぐ近くのイギリスの例を出すまでもない。


覇権を握る上で重要な事がある。
それは、"道"自体の運動性を制限した国家は、覇権を手放すことになるという事である。
いうならば、「自由を守る」という大義名分故に、"道"の支配権を間接的に利用者から認められるのである。
つまり、「自由を守る」のでない限りは、そこにいる有機的な繋がりに対して、利益を与える事が出来ないのだ。
ちなみに、大英帝国の凋落はまさに、自由貿易からブロック貿易への変化に従って顕著になったのであった。
これは、国の力の凋落とはまさに鶏と卵の関係である。
国の力が落ちてきたが故に、自分が守れる範囲を「制限」する必要が出てくる。
「制限」された自由は、覇権を手放す強力な理由となる。
そうして負のスパイラルが出来上がるのだ。


多くの国がネットに「制限」をかけようとしている。
すでに中国は制限がかかっているし、日・英でも制限されようとしている。フランスでも同じような動きがある。
これは、裏を返すと、「ネットの自由が認められるほど、その国の支配力は強くない」という事に他ならない。
弱いが故に、コントロールできる範囲を定めて、その部分だけ支配権を得ようとしているのだ。
これは、植民地主義的発想と酷似している。
ちなみに、植民地主義を掲げた国のすべてが覇権を握ることが出来なかった。


結局、人間にとっての最大の大義名分は「自由を守る」ことなのである。
そうしたうえで、私は現状の力の衰えた国というコミュニティが、ネットの覇権を握る事は出来ないのではないかと考えている。
もしかしたら、ネットを支配することが覇権を握る事にはならないのかもしれないが、そうなった場合、ネットのコミュニティに何らかの影響を与えられる国は存在しないだろう。
それを国がはっきり認識できたとき、国の寿命は尽きるのかもしれない。