2010年08月02日の宣言。

2010年の08月02日に、私はTwitter上で、Twitter上でやるにはあまりにも長すぎる連続Tweetをしている。
それは、私自身が、市井の「思考者」としての基本的なスタンスを日本社会の批評に即して行ったものであった。
発言当初から長すぎるためにTwitter上では読みきれないという発言が多かったので、ここに全てをまとめることにする。
基本的に、以下の発言は全てTwitter上の私の発言のコピーである。




私の基本的な思想パターンから。私のパターンは「超個人主義」である。
これは、「個人が各自の幸せを最大限にしていく事に注視していくその過程で、徐々に個人主義的観点が欠落して行き、結果的に社会に対しての幸福最大化現象が起こる」という理想主義的価値観である。
これが理想主義であるのは、一目でわかると思う。が、私はこれを推奨する。
私の理想主義的価値観の根底にはいつでも、プラトンとトマス・モアがいるからである。彼らなくして私の思想は語る事は出来ない。


さて、これを前提に日本の雇用問題についての議論だったのでそちらに論点をフォーカスする事にする。
私は昨日、「何で今の日本雇用を一方的にdisってんのかなぁ?日本にある企業が一枚岩で無い事は明白なのに」というツイートをした。
それに対して、「その様な特殊な企業群を挙げられても、日本社会全体が固定化しているので意味が無い」という件のReplyを貰った次第である。
さて、この事について、私の「超個人主義」的解釈を展開していく。


重要なのは私は今、私の意見を述べているという事である。


確かに、現在、日本の雇用体型は極めて固定化しており、均質化しているともいえる。
その結果が今の「精神的に貧しい」社会が作られている根本原因だと考えている人が多い。事実、その様な節は多いと思う。自殺率や過労死など良い例であろう。
だが、私が基本的に主張する事は、「本当にイヤだったら逃げれば良いじゃん?辞めれば良いじゃん?」という事だ。
これは、「自分の主義主張も一貫して唱えられない人間が社会を批判しても意味が無いよ」と同義だと考えてもらって構わない。


実際、日本企業において、「仕事の最大限の効率化を目指した結果、残業0ながら売り上げ1位or2位をたたき出し続けた男性」を知っている。彼は、結果的にその会社の同僚や上司から疎まれ続けた。一方で残業代を出さなくて良いので社長には好かれていた。彼は、「自分の考える最大効率」を極め続けたのである。
その結果、3つほど会社は変わったが、現在はア○セン○ュアから、素晴らしいヘッドハンティングオファーが来て非常に悩んでいるという。「30代・雇われ」では考えられない条件だという。
また、その一方で、日本の大学政治に巻き込まれ、論文を書けなかった女性を私は知っている。彼女は、「新しい源氏物語」を書きたかったが、日本の柵の中では書けなかった。
今、彼女は中国で生き生きと美しく生き、新しい論文執筆をしている。


この様に、日本の柵を越えて、自分の信念を貫き、生き生きと仕事や生きがい等に没頭している人間達がいる。これが「個人主義」の現れである。
多くの人に迷惑をかけながらも、それでも自分の信念を信じ戦い抜いた人々である。何故多くの人がこれが出来ないか不思議である。
私が常々疑問に思っているのは、「日本の柵が嫌いなのに、何故そこから出て行くような行動を起こさないのだろうか?」という事である。
その様な行動を起こしている人間に「我も我も」と飛び出さないで、日本システムの批判をするのは果たして意味のあることなのだろうか?
当然、問題点・修正点のあぶり出しは非常に重要である。だが、そこに終始してしまってはいないだろうか?私は、そこに疑問がある。


今の日本のシステムの中でも十分に個人が個人として活躍できる場所・環境は探し続ける信念さえあれば絶対に存在する。


その信念も無しに一方的な批判は意味が無いのではないか?批判は批判としては重要ではあるが、現実を変えるだけの力を持つ事は難しいと思う。
私は、「批判をする限りは私が良いと思う方向に変えていきたい」という考えだ。机上の空論はもう飽きたのだ。
そして、現実を変えるための最初の一歩として、私は自分自身が変化していく事、自分自身が自分の理想に近づいていく事が重要だと思っている。
そして、その様な行動の積み重ね・集約が、現実を変えるのだと信じている。


私は、理想主義者である。


私ひとりの力では世界は変わらない事はわかっている。しかし、私自身すら変える事が出来ないでどうして世界を変える一石を投じることが出来ようか?
私は、アナタが何をしているか知らないが、アナタは批判者のみで終わってないだろうか?
もう一度言う。私は理想主義者である。私が思うようには世界は変わらないかもしれないし、私が良いと思っている世界は、多くの人にとって良いかどうかは正直わからない。
私は傲慢である。だが、その傲慢こそが、世界を変える力の源である事を私は直感的にわかっている。


さて、ここまでは、私自身の一方的な理想論的意見表明であった。
つまりは、「世界を変えたければ自分を変えろ。世界に理想があるならまず、自分をその理想に近づけろ」という事だ。だが、これは、私の一方的な意見だ。世の中には多種多様な価値観がある。
そのため、この「個人主義」には決定的に向かないような部分で得意なところ・長所があったりする場合がある。
その様な人たちが、この理論では幸せになれないことになってしまう。


では、そういう人たちを私は切り捨てるのか?答えはNoである。


社会システム論的には、私は今までとはうって変わって功利主義者である。
つまり「最大多数の最大幸福」だ。
これをいうと、私は完全なパラドクスに陥っているように聞こえるだろう。しかし、私は「木」を見る場合は「個人主義」で「森」を見る場合は「功利主義」なのだ。
私は、次のようにこの理念を並列化させている。


つまり、「最大多数の最大幸福を目指すような議論をしなければならない。しかし、その結果として沈没していく社会で全ての人間が死んでしまっては意味が無い。まずは救えるものを救うのだ」と。


そういう観点においても、実は、現在の日本システムを一方的に批判する事は間違っているのだ。
なぜならば、「今の日本システムの恩恵によって生きている人々の幸福はどうなってしまうのか?」という疑問が浮かび上がってくるからである。
今の若者を生かすために、今の年寄りを切るというのは、結局のところ、支配者層が変化しているだけで、システム構造においてはほとんど変化が見られない。
結局、「既得権益層良いなー羨ましいなー」と言っているだけなのだ。
そして、そこで世代間闘争なんか起こってたら、今の既得権益層は大歓迎だ。
結局、選挙などでも、票が割れてしまい、本当の意味でのリベラルには十分な票が集まらない。たぶん、官僚は世代間闘争を助長するような事をマスコミに優先的に流していると私は個人的に思っている。
どうやったら、現実が変わっていくのか?にしか私は興味が無い。
現実が変わっていく方法を考えろ、という事だ。しかも、日本において「最大多数の最大幸福」が実現出来る様にである。
それは、欧米という外部に答えは無く、内部から生み出さなければならないと考えている。


「最大多数の最大幸福」とは要はバランスである。


全ての世代がバランスを持って「幸福」を生み出す事ができるのか?私は、「日本は欧米的なシステムの輸入だけでは幸福は生み出せない」と考えている。
だから、2項対立的に日本システム× 欧米システム○には反対する。
このような視点の下で、果たして今の2項対立的な議論は健全であるのだろうか?私にはそうは見えない。
日本は先進国である。そして、最も先進国病が進んだ国でもある。
そういう意味で、様々なテストをしていく段階であり、新たな「日本システム」の構築が必要だろう。
先進国とは、文字通り先を行く国である。なので、周りに答えはない。
もう、外から答えを探すのは止めにしよう。
我々、日本は幾度と無く、正に不死鳥のように復活し続けた国である。外部に答えを求めることなく、内部から答えを導き出す。
それが私の理想論である。
そして、そうした上で、日本が新しい「答え」を見つけることが出来れば、世界はその「答え」を賞賛し、更なる幸せが生まれるかもしれない。
結局、最初の「超個人主義」に戻ってしまった。


世界を変えるために日本を。


日本を変えるために自分を変えていくのである。


それこそが、私の理想である。何度も言うが、これは私の理想である。
そのために何が必要なのか?私は毎日それを問い続ける。
私は現実を変えたいのである。その理想に向かって。
そのために日々生きるのである。言うならばそれだけである。






予想以上に長かったが、私が生きる意味・価値を見出した部分はいうならばこの言説によって70%以上説明がつく。
世界を変えるために自分を変えるのだ。
世界を自分が良いと思った形に変えていくために、自分を良いと思った形に変えていくのだ。
そうして自分が変わり始めたとき、周囲が変化し始める。
周囲が変化し始めるならば、それが私にとっては素晴らしい瞬間だろう。
素晴らしい瞬間を目指して、日々、私は変わり続けるだろう。


「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」