2010年08月08日 オルセー美術館展を巡るTweet群。

2010年08月08日に私はTwitter上で、オルセー美術館展(印象派展)に行った感想を連続Tweetしている。
今回はこの連続Tweetをまとめてみる事にする。




Tweetしたい事が本当に山ほどあるが、とりあえず、オルセーをやる。
まず、印象派なんだが、何で「印象派」って名前がついているんだろう?と素朴に疑問。どうも、その言葉と作者達がやりたかった事に隔たりが感じられてしょうがない。


私としては「網膜派」とでも付けた方が良かった気がする。


彼らは、如何考えても「他人が見たときに如何網膜に焼きつくのか?」という事に、無意識的に突き進んでいったんじゃないかと思う。
これは、非常に”脳構造”的な考え方だ。
つまり、「人に如何見えるか(能動的・意思的)」ではなく「網膜に如何映るか(非随意的・非意思的)」という事。
現在においては、「見る」という行為そのものに対しても、脳が勝手に情報遮断をしたり、意識的に「見落とす」様な事が知られている。
100年前の彼らも、もしかしたらそういう議論レベルでの「如何見えるか?」という事に執着していたように思えるのだ。


次に、「印象派といえば光と影」という言い方をよくされる。
だが、私が気になったのは「水」であった。


特に、「水面に移る景色」には非常に強い関心を示していたような直感を得た。
これは、たぶん水面が「ゆらゆらと揺れていて定形がない」という現象を忠実に再現したかったからではなかろうか?
見ながら感じたのは、印象派が色々な点において非常に「忠実である」という事だ。
確かに書き方などは、抽象的なあるいはイメージを喚起されるという点で印象的な作画が極めて多いのだが、構成要素を細かく見ていくと、彼らの書き方は恐ろしく「忠実である」様に思えた。
例えば、彼らは人間の肌色を表現する際に多少の「青色」を書き込んでいく。
更に、白を表現したい時も「青色」を書き込んでいくのだ。
これは、「光の三原色」や色のパラメータを知っている人なら良くわかると思う。青は重要な要素なのである。


これを「忠実に」彼らは書きこんでいるのだ。


私は、彼らの描き方・スタイルは、彼らの見ていた情景に「忠実」であったように思うのである。
ところで、「忠実」な描き方と言われるとすぐに思いつくのが「写実派」であろう。
私はこの印象派と写実派の関係に非常に興味を持った。


我々が両者の関係に対しての普通のイメージは、「写実派に反抗する印象派」であろう。
しかし、私は、先ほどの「印象派は忠実である」という事から、彼らの根底には同じような思想の流れを感じ取る事ができる。
つまり、どちらも「見える事に対しては忠実である」という事だ。
”自分が見たものを「忠実に」再現し、他者にそれと同じものを見せる。”
その方法において、
写実派は「目に見えたものを1つ残らず忠実に再現する」という方法を取ったが、
印象派は「目に見えたものをそのまま他者の網膜に再現する」という方法を取ったのではなかろうか?


そういう点において、実は写実派と印象派は同じ幹から生まれたが、違う枝になってしまったという様な関係性を持っているのではなかろうか?という仮説を得るに至った。




これは非常に好評な連続Tweetだった。
印象派」と「写実派」の重なる部分と異なった部分。
また、私は脳科学的な問題意識から、「網膜派」という言葉を使った。
私としても、読み返してもこの視点は重要だと思っている。


「目に見えるもの、それらは現実ではあるが、真実ではない」