私の「官僚否定論」に対する違和感。

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2010年10月19日の深夜に私がやり取りしたTwitter上での議論(意見交換)である。
相手はどちらも非常にTwitterを使い慣れているらしく、Twitter上での議論の仕方のようなモノをわきまえている。
さて、今回、私が問題にしたいのは「官僚否定論」に対する一定の見解である。
私は「官僚否定論」者ではない。まず、ここを明らかにしておきたい。


今回の議論(意見交換)はかねがね私が「官僚否定論」に対して「??」を付けたくなるような話が中心になっていたのである。
その問題とは大きく分けると2つある。


A. 官僚は、公共サービスを司っているがボランティアではないし、「公僕」とはいえ一種の資格労働者である。
B. 政府の行動アルゴリズムと企業の行動アルゴリズムを同一視は出来ないのではないか。


これを丁寧に説明していこう。


まずは、Aの点についてである。
官僚とは「第一種国家公務員」という資格を有した者が任命される職業である。
感覚としては、「弁護士」や「医者」等と一緒だと考えて良いだろう。
さて、今回の議論(意見交換)では、主に「私利私欲に任せた天下り」が問題になった。
この「私利私欲に任せた天下り」に関して問題視されるのは「お金貰いすぎなんじゃない?」という事だろう。
実際、議論上でも給料の話になっていった。
だが、私はこの「官僚の給料を下げろ」という発言自体にそもそもの違和感を持つのである。
理由は明確だ。


日本の中で最高資格としての「官僚」という組織の報酬が十分でなくて、果たしてその質を維持出来るのだろうか?という疑問である。


官僚はボランティアではない。
例えば、今いる「医者」全てに「国境なき医師団に全員参加しなさい」というのは絶対に意味が無いだろう。
それに、これも例だが普通のサラリーマン以上の給料が見込めない「弁護士」という「資格」「職業」に関して、十分な魅力があるだろうか?
官僚というのは最も格の高い資格労働者の1つだと考えている。とすると、その給料も当然高くて問題ないだろうし、そうでなければあの激務を遂行しようと考えるのはよほどボランティア精神に溢れた人間なのだろうと思う。
更に質の問題である。
国家という大きなものを動かす人々が無能であったら如何であろうか?それこそ大問題である。
そして「優秀な人=ボランティア精神に溢れた人」と必ずしもならないであろう。
もし、自分が他人より優秀であると思い、そして事実優秀であるならば、ある程度のお金と地位と名誉を望むのは人間感情として当たり前であろうと私は思っている。
そのお金を掴む1つの方法としての「官僚」という選択肢は有ではなかろうか?という事だ。
ただ、1つの留意を残すとすれば「官僚は公僕」という言葉がある。
故に確かに「私利私欲に任せた天下り」というのは首を傾げざるを得ないのは事実である。


次にBである。これは非常に厄介である。
企業・法人と国家・官僚の違い。組織されているのは当然人間である。ここに違いはない。
ここでも問題となるのは先ほども出てきた「公僕」という視点なのかもしれない。
そもそも、企業とは「法人」という形で「一種の自由意志を尊重された存在」とされている。
ここからは少し「自由と責任」という一種の哲学的な話となる。
自由意志に基づく行動から生まれる「結果」ここに、この自由意志に基づく行動を行った“個人”の「責任」が発生する。
これは「一種の自由意志を尊重された個人」としての「法人」という視点により、企業の行動には「責任」が生まれる。
よって、議論中にもあったように「何かミスをすると責任を取らなければならない」のである。
もう一度言う。
「自由意志に基づく行動から生まれる結果に対し、その自由意志を持つ個人は責任を持たなければならない」
これは、近代国家においては大前提の1つである。
これがもし無ければ、国家は我々に自由意志を認める事は決して無いだろう。
さて、この前提を頭に置いた上で、議論を元に戻す。
「官僚は公僕である」
重要な点は、「官僚は十分に自由意志を尊重された存在」なのであろうか?という点だ。
もし、十分に尊重された存在であるならば当然法人と同等と扱わなければならないが、果たして如何なのだろうか?
私は“十分に”尊重された存在であるとは考えにくいと思っている。
よって、「企業人と同等の責任能力を官僚は国家の行動そのものに対して持っていない」事になる。
この辺りを正確に議論していくと、そもそも「自由意志」とは何であって、誰が認めているのか?という議論が必要になっていくのでここでは割愛する。
この点に関しては十分に議論できていないように感じる。如何であろうか?
もし、官僚と企業人がこの「自由意志」と「責任」の部分で差異が生じているのなら、明確にこれらのアルゴリズムは同一とは言えない。
また、更に「法人」と「国家」という関係性からも同一アルゴリズムで議論するのは不可能だと思っている。
私としては「官僚は官僚を罰するorそれ相応の責任を取らせる法律が必要なのではなかろうか?」と思っているが、自分を罰する法律など誰が作るのかとも思う。
ここに関しては、もしかしたら、近代国家が内包するパラドクスがあるのかもしれない。


以上の2点により、「官僚否定」に対する反駁を終了する。
如何であろうか?私もこの点に関しては明確に議論を突き進めて行った訳ではないので、十分でない部分や漏れが必ずあると思う。
もし、気がついた点があれば指摘していただければ幸いである。


「自由意志は国民によって尊重され、国家によって保障されている」