労働観についての雑感など。

「人生で何がしたいのか?何故生きるのか?」この頃非常に私自身もよく問われている。
人間は生きるために、「他人が納得できる理由」が必要らしい。


他人が納得出来るとは、即ち、自分が楽しい事・やりたい事=「金が稼げる事」として理由付けすることに他ならない。
もし、自分がやりたい事が金を稼ぐ事と直結していなかったら如何すれば良いのか?


稼げば良い。


他者は基本的に「稼ぐ事」に意味を見出しているモノが極めて多いという事である。
正直、馬鹿げていると思うが、事実ではある。
稼いでいれさえすれば、後ろ指を指される事は少なくなる。
職業に貴賎は多くの人が持っているイメージだし、上下関係もある。
偉い・醜い・大変・楽。
そのイメージは、大体の場合、その勤めている人の年収によって決定されるだろう。


また、正社員と契約社員・派遣でも違いは当然生まれてくる。
ちなみに、正社員10年と派遣の10年では、手取り換算すると派遣の方が良いと一般的には言われている。
一方で20年・30年と考えていくと正社員の方が良いと言われている。
だが、昨今、ここまで年功序列・終身雇用が崩れてしまった現状としては本当にそうなのかは甚だ疑問である。


この様に考えていって、私は何が正しいのかさっぱりわからなくなった。
大学時代は週4回働いていた。
社会人になってからは週5〜6回働いている。
しかし、収入は明らかに大学時代のほうが良い。
この理不尽さは到底、理解不能である。
だが、正社員という枠組みの中あるいは日本の勤勉たる文化の中では、週に5〜6回働いた方が偉いし世間体的には評価される。
全く理解不能である。何故なら、私は「仕事に関しては効率よく稼ぐ事が良い」と確信しているからである。


基本的にWorkに関しては、まず「稼ぎ」が重要だと私は考えている。
その次に「遣り甲斐」が出てくる。
私はその関連を以下のように考えている。


稼ぎ満足度+遣り甲斐>仕事をするインセンティブ


という関係式である。これを少し詳しく見ていこう。
稼ぎ満足度も遣り甲斐も仕事のインセンティブも基本的には個人的嗜好によって左右される。
稼ぎ満足度とは、「稼ぎ」そのものの絶対量ではなく、「自分が必要としている金額に達しているかどうか」である。
ちなみに「高ければ高いほど良い」という発言はここでは却下する。考察に値しないからである。
遣り甲斐とは説明する必要も無いだろう。充実度と言い直しても良い。
ここで重要な点は、「稼ぎ>最低保障賃金」でなければならないという事である。
それ以下ではただの搾取であり、労働・仕事とは見なされない。
そして、遣り甲斐に関しては“±”が発動する。
つまり、どれだけ遣り甲斐が無くとも十分すぎるほどの賃金を得ていれば、その仕事をするインセンティブを満たしているために手放さないというわけである。
この際、もし「左式<右式」になってしまった場合は仕事を続ける事が不可能であり、早かれ遅かれ退職という道を選ばざるを得ないだろう。


結局、仕事とは「稼ぎ」と「遣り甲斐」で決まるのだ。
ただ、この関係性に関しては、個体差がある事は絶対に忘れてはならない。
この金額やこの遣り甲斐で、辞める人も辞めない人もいるのである。


「遣り甲斐」と「稼ぎ」と。どちらを重んじるのかわからないが、どちらが譲れないのかは知っておいた方が良いだろう。


「仕事の遣り甲斐は“生きる理由”にはならないのだ」