“王たる素質”についての考察

“王たる素質”
これは、単に物語の王であるというようなそういう類の問題ではない。
この言葉で私が指し示したいものというのは、
「自分の人生という限られた世界に関して、能動的にかつ専制的にその世界をコントロールする素質」
といえばわかりやすいであろうか?
要は、自分の人生という物語上の王として、その物語上に“君臨出来るか?”という発想である。


自分の人生を能動的にコントロールする。これはきわめて難しい。
何故難しいかといえば、やはり他人がいるからである。
自分の人生は確かに自分自身のものであるが、その自分自身が必ず他者から影響を受ける。
この影響から逃れられる人は皆無である。
人間の思考回路というモノは、必ず生まれや育ちといったバックグラウンドによって支配されている。
つまり、自由な意志や自由な感情などというモノは、理想空間上の真理分野の1つであるといえる。
だが、そうした“他人のハリボテとしての自分”という発想がある中で、それでも人は自分というものを確立し、その上で生きていかなければならないという、孤高の存在としてそこに在る。


では、そうした孤高の存在としての自分(強いて云えばこれが自己に当たる)というモノを如何規定していくのか?というのが問題となっていく。
これこそが私が言う“王たる素質”である。
今までの自分、今の自分、これからの自分。
即ち、過去・現在・未来という一定時間軸において、自分というモノは2つ存在する。
1つが正に今いる自分であり、もう1つが自己である。
これをわかりやすく凝縮すると、「現実の自分」と「理想の自分」ともいえる。(少々強引な言いかえなので、かなりずれているがイメージとしては近い)
この区分において“王たる素質”とは、「理想の自分」が「現実の自分」をコントロールするという事になる。
これは極めて意識的なものであり、そしてとても難しいものである。


この問題に対して、とりわけ日本人は(この言い方は私は大嫌いだが)この様な“王たる素質”を発見したり、伸ばしたりする訓練を行っていない。
この訓練とは、単に「目標」を決めそこに対して「進んでいく」というモノである。
これに関しては誰でもやった事があると多くの人が思うと思う。
しかし、私が問題にしているのはこの「目標」が、果たして「現実の自分」から生まれ出たモノなのか、それとも「理想の自分」から生まれ出たモノなのかという事である。
つまり、日本人は、後者の訓練を殆どしてないのである。


幼稚園や小学校の時にこう聞かれた事は無かっただろうか?
「大きくなったら“何に”なりたい?」
これは極めてイメージを縮小させる。
“何に”?現実に存在するものを挙げなさいというプレッシャーがある。
例えば、これに対して「大金持ちになりたい!」と答えたら多くの教師達が顔をしかめるであろう。「具体的でない!」と言われるだろう。


これは、「自分」というモノが非常に他人の影響下に置かれている事を端的に示した例であったが、日本ではこの様な「理想の自分」を「現実界」の柵で縛り付ける様な傾向があるのである。
だが、21世紀に入り、“個人の時代”と評されて久しい時代に突入した。
“個人の時代”とは、“何者でもない自分”を確立する必要がある、非常にイメージ先行のクリエイティビティが必要となる時代である。
こうした時代において果たして「現実の自分」や「他人」に自分の「目標」を縛り付ける必要があるのだろうか?


本来、多くの人間が“王たる素質”を兼ね備えている。
それに対して、何故か知らないが、多くの人間や環境がその素質を否定しにかかってくる。
その中で、如何にその素質を破壊・スポイルされる事無く、守り伸ばしていくか?
この問題は、現代を生きる全ての人間にとって必要な問いであり、実践しなければならない事なのではなかろうか?
全ての人間が、自分の理想をぶち上げ、それに邁進すべき、ダイナミックな時代に突入しているのである。


「自分を守り、自己を作り上げ、人生という物語の王たれ!」