学ぶという事は「生きる事に不必要な事」。②

前回は、「必要というのは誰が決めているのか?」という視点から、「結局、必要性は環境という外部条件によって定められているので、我々は我々にとっては不必要な事をたくさん学んでいるのである。」という結論に至った。
これに対して多くの人が「全ての人にとって必要な事があるはずである。例えば言葉とか」という反論意見を持つのではないか?と思う。
これについても、考えていこう。
つまり、「全ての人にとって必要な事を勉強する価値はあるのか?」という問いである。
私はこれに対しては明確に否定する。
そもそも、「勉強」「教育」という中で「全ての人にとって必要な事」を"与える"事は決してないのだ。


何故なら、「全ての人にとって必要な事」とは「全ての人にとってその必要性が"自明"な事」なのである。
私を含めた他人全てが必要である事とは、明らかにその必要性が"自明"となっている事ではないのだろうか?
これを前提とする場合、次のような疑問が湧き上がってくる。


「何故、その必要性が明らかに"自明"であるにもかかわらず、"他人"によって与えられる必要があるのだろうか?」


これは極めて重要なテーゼを含んでいる。
そもそも「他人から与えられる」という性質が「必要性の"自明"」を否定するのである。
というのも、100%その必要性が"自明"とされているのならば、なぜ他人からそれの薫陶を受けなければならないのだろうか?
つまり、「教育しなければならない」「勉強しなければならない」と言える様な事全てが、その必要性が"自明"でないから「そうしなければならない」というのである。


前回と今回の記事から言える事はこの様な事である。
「他人から与えられる事ほぼ全ては、"自明"な必要性を持ち合わせておらず、それゆえに、その必要性を担保するものはその他人が作り上げる環境(世界)によっている。よって、我々はその事が"必要であるかどうか"を議論する事は不可能なのである」