学ぶという事は「生きる事に不必要な事」。①

古文漢文は教育上「必要ない」。
四則演算はわかるが、ベクトルや複素数平面など普通のサラリーマンをやる上で何か「意味」はあるのか?
生まれてこの方日本人にしか接したことがない。英語を勉強する「理由」がわからない。
日本史が必修なのは、帝国主義歴史観を植え付ける事になる。「必要ない」。


教育を議論していると必ずこういう意見が湧き上がる。
必要無いものは勉強したり詰め込んだりする必要がないというのが、こういう意見の主要な考え方である。
私はこの意見に明確に反対する。
何故なら、ほぼすべての勉強事は「生きる上では全く必要ない」からである。
つまり、勉強や学問は、本来生きる上には必要ない事なのである。


この必要であるかないかの論争は、実は非常に不毛なのである。
何故か?それは、必要か不必要かは環境が決める事だからである。
例えば、周りにいる人がすべてロシア人であれば、ロシア語が必要であろう。
しかし、多くの日本人にとっては不必要な事である。
この様な事は語学に限らない。少し存在論的な話になるが、四則演算ですらこの理論は健在である。
何故なら、四則演算概念の最大のポイントは、「1という数字が誰にとっても同じ1である」という"人為的作用"によってその概念が構築されている。
しかし、私の目の前にある「1という事象」が他人の見るその「1という事象」と同じである事は、存在論からすると否定される。
外部的には同じ事象を認識していても、その内部や認識度合いは違うという点で、その事象はその間で同じであるとは"言い難い"のである。
つまり、その概念が四則演算の概念よりも一般的になれば、四則演算は存在しえないことになってしまう。
この様に、外部的に定められた事の必要性・規定性は全て環境によって左右されるのである。
これが、非常に不毛である理由である。


つまり、我々は「生きるためには全く必要ない事を、人為的な環境の変化によって必要性を与えられた事」を勉強する事になる。
裏を返せば、自分にとっては不必要でも他人にとっては必要かもしれない事を、全体的に「学ばされている」のである。
この結論に立てば、多くのその教育科目は「必要か如何か」等という議論は湧き起こらないはずなのである。