Twitterとは。その1

2ヶ月ぶりのエントリーとなる。
約1年にわたり、Twitterを使ってきた。
その間に私は幾度のなく、Twitterそのものの批評を試みている。
その上で私なりの結論を綴っていこうと思う。(たぶん3部作


Twitterを使用している上で、私が考える主な特徴は3つである。
1.140字という字数制限がある。
2.見てくれている人がある程度把握でき、リアルタイム性が強く、相互コミュニケーションが比較的容易である。
3.TLという形で自分流のTwitterの形を創出できる。


1についてはとりわけ説明する必要はないだろう。
1つのTweetにつき140字である。
これはTwitterが小鳥の囀りをイメージしていることから制限が設けられている。
一応、様々なサービス(“Tiny Message”や“TwitLonger”等)を用いることにより140字以上のTweetが可能なほか、連投とTogetter・ブログを組み合わせる事により、制限は加わるが長い主張の登録および固定化が可能となる。


2に関しては、私が考えている中で、最もわかりやすくだが最も誤解の大きい特徴であると思う。
数多くの人がこれを長所として評価しているが、私は長所でも短所でもあると考えている。
チャット機能がそのままブログのようになるという点で、実はブログの延長線上に存在しているTwitterというツールは、リアルタイム性を極限まで高めたブログなのである。
チャットではないのだ。
確かに、チャット“の様に”使うことも可能である。
が、ブログなのだ。
つまり、ReplyやMentionでのやり取りというのは、実際のところはブログのコメント欄によるやり取りとほとんど変わりがない。
ただ、ここに関して“時間”という点で大きな違いが生まれてくる。
それがリアルタイム性であり、あたかも目の前に人がいるように見えて(チャットに近い)、しかし人はいないという(ブログに近い)部分が特徴なのである。
ちなみにこの部分に関してはさらに詳しく、第2部において説明していくつもりである。


3に関しては、最初多くの人が戸惑うのではないだろうかという特徴である。
今までの多くのサービスは一連のやり方があったが、Twitterは極めて自由性が高い。
正確には、Twitterは必要最低限のものしか与えてくれないのだ。
Mixiなどの今までのサービスとは異なっている大きな点である。
これを楽しいと感じるかそれともつまらないと感じるかは人それぞれだろう。
自分がActionを起こすことによって始めて何かが起こる。
本来、自由とはこういうものである。


さて、こうした中で、Twitterを使っていく人間としての私が最も興味深く特徴であるかもしれないと思っているキーワードがある。
それは“再見性”である。


“再見性”とは何か?
今までの多くの文章は「何度も読まれること」や「ある程度の時間がたってからも読まれること」を前提として推敲されている。
なので、言葉一つ一つへの配慮が感じられるような文章が多い(当然、そうでもないようなものもたくさんあるが)
しかし、Twitterにおいては、この“再見性”の観点が極めて薄い。
正確には、TLの特質および極限のリアルタイム性の中で、“再見性”を保つ必要性・重要性が非常に薄くなっている。
何故ならば「再び見られる(読まれる)可能性が低い」からである。
つまり、“再見性”が要らない文章ツールなのだ。
つぶやき・小鳥の囀りという視点からして、Twitterを利用している多くの人々が文章を書いているという意識も少ないのかもしれないと私は感じている。


そういう点で、Twitterは人類が手に入れた初めての“再見性”を持たない、“再見性”の枷から外れた文章ツールなのかもしれない。
それが長所であるのか短所であるのか、私にもよくわからない。
ただ、1つだけいえるのは、Twitterの文章は、さらっと書いて終了!という点で、「文章のファーストフード店」と呼べるのかもしれない。


「誰も読まないかもしれないけど誰かは読んでいるのがTwitterですよ」