ミームの心臓「ゲージ」

8月6日12:30〜「シアターグリーンBASE THEATER」にて、ミームの心臓という劇団が織り成す、「ゲージ」という演劇目を鑑賞してきた。
そこの劇団員の一人が私の知り合いであったが故である。
結論から言うと、非常に色々と発見がある、有意義な時間を過ごさせてもらった。
この劇団員ならびにその関係者には心より御礼申し上げたいと思っている。


この「ゲージ」というもののストーリーは、単純に言うと、現代の若者と1960年代の若者が同じ場に居たら何が起こるのか?というものであった。
そこで生まれるものは、当然すれ違いと対話である。
相手に興味を見出せば対話が生まれ、興味が失せればすれ違いとなる。
ちなみに、ケンカや議論ですらある意味で対話であろう。
対話が発生するという点で極めて恣意的に感じるかもしれないが、そこは演劇目である故。
しかし、ある程度冷静になれば、同じような議論や話し合いはどの場面・時代でも起こりうるのではないかと感じた。


気がついた事は主に3点である。
まず、1つ目には、これは演じている人間に演出が引きずられているのかもしれないが、基本的に、現代の若者も1960年代の若者も同じ存在であろうという事だ。
1960年代といえば、学生闘争が繰り広げられていた時代である。
この時代の若者と現代の若者。何が違うのかといえば何も違わないのではないだろうか?と思う。
言うならば、環境が決定的に違うがゆえに、彼らを支配し、影響を与えている思想が異なっている。
しかし、彼ら自身にはほとんど違いは無いのでなかったか。
1960年代の彼らは、「私たちが世界を時代を変えるのだ!」と立ち上がり、そして行動を起こした。
一方、現代の若者は、「私たちがそれだけ頑張っても世界は変わらないのだ」とシニカルになり、行動を起こさず傍観している。
しかしよくよく考えると、これは同じ思考回路で成り立っている。
なぜならば、その最初の思想の源流を批判・評価できていない。
自分自身にとって、その思想が何を意味するのか?という取り方ができていないのである。
思想を受け入れるとは、思想に染まるのではなく、その思想を自分の考えのどこに"当てはめるのか?"という視点が極めて有用なのだが、その様な議論は実は存在していないのである。


2つ目に、現代には「意識の高い学生」という一種の煽り文句のようなものがある。
私は一度でいいからその意識の高さに憧れ行動を志向した後(現実にする必要は無い)、戻ってきて欲しいと常々考えているが。
ともかく、何故それが煽り文句となるのかといえばその意識に「現実や言葉・自分の思想が伴っていない」からである。
そして、これは現代の行動を諦めた若者が、それでも自分に行動する事を駆り立てる為に行っている現代病だと私は考えていた。
ところが、そうではない事を、この演劇は教えてくれた。
1960年代の彼ら、これは一種の対比構造として、時代背景を無視して作ったかもしれないが、彼らも同様に「意識が高かった」のである。
とりわけ、1960年代の方に居た女の子(名前を忘れてしまった!誰だったか!?)の話し方が正にそれだった。
彼女は自分が説明していると思っている事を自分自身に説明できていない。
その結果として、彼女の説明は全てうわっすべりになってしまっているし、他人に伝わらない。
正確には自分自身にすら伝わっていない。
つまり彼女にとっては「行動する事が目的」となってしまっていて、主客逆転現象が起こっているのである。


3つ目に、思った事は、全ての対話の始まりは「相手を理解しよう」という態度から始まるという事である。
それと共に「相手は我々を理解してくれるだろう」という期待が必要なのだ。
それが良くわかるのは、正に冒頭のシーンである。
「彼らは説明をし理解すれば、我々の同士となってくれるかもしれない」
この期待は極めて重要なのだ。
これがない限りは、対話は絶対に生まれる事はない。
結局は「良くわかんない」で全てが終了してしまうのである。
これは、何もこの様な対話だけではない。
低レベルな飲み屋の対話でも同じである。
高レベルな例えば外交上の話し合いや、ビジネスシーンにおけるプレゼンテーション等も同等である。
「相手は必ず理解してくれる。そして理解してくれたら、我々にとって非常に有益な関係となるはずだ」
これこそ、対話をなす上で必要なスタンスに他ならない。この事を再認識した。


ほかにも多くの場面で小さな気付きもあったが、今回は書かない事にする。
なんにせよ、このレベルの演劇目を、大学生が出来るというのは驚きに他ならない。
是非、彼らの演劇を見に行って欲しいといいたいところだが、この「ゲージ」は既に幕が閉じている。
今後とも彼らの動きに期待したいと思う。