答えがないという事

答えがないという事。答えがあるという事。
これについて多くの人が認識できていないところがあるような気がする。
全ての事柄について、人為的作用が働いていない場合、答えは無い。


これはごくごく当たり前なのだと私は思っている。
例えば、1+1=2である。
しかし、これは数学的知見という人為的作用が働いている。
テストには答えがあり、それに基づいて点数がつけられる。
これも人為的作用が働いている。
如何したらいい点数が取れるのかというメソッドが存在する。
テスト勉強など所詮はルール探しであると言っていた友人がいたが、まさにその通りだと思う。


一方で、航空工学の理論を用いると、蜂は空が飛べないことになるのは非常に有名である。
しかし、蜂は空を飛んでいる。これは何を示しているのか?
これは、蜂が空を飛ぶ理論については航空工学においては説明できないという事を示している。
蜂が空を飛ぶのは間違いであるという事を意味していない。


翻って、多くの事象において、「蜂が空を飛ぶのは間違いである」という様な議論が往々にして存在する。
しかし、それは人為的作用によって定められた空間、それで説明できる空間にそれ自体が存在できていないという事を意味する。
それ以上の意味はない。


我々が探している事象の解答とは結局、事象が現状の理論で説明できるか如何か?を意味しているのであって、そこに間違いというものは存在しない。
間違っているのは理論である。
正確にいうならば、説明できるだけの十分な領域がその理論にはないという事になる。


間違っているのは蜂ではないのだ。
この事を勘違いしている様な議論が極めて多いような気がする。


正しい事というのは結局人が決めた事である。
間違っている事というのも結局人が決めた事である。
それでも、多くの人が正しい事・間違っている事を、"他人に決めてもらうために"様々な情報を得ようとしている。