リーガルとイリーガルの狭間に生きるボーダーの存在。

どうも、日本社会というのはボーダーの存在が必要不可欠なのではないだろうか?
この頃、そう思う事が増えてきた。
ボーダーとは、リーガルとイリーガルの狭間で生きる人々の事を言っている。


私は、社会は基本的にリーガルとイリーガルに別けられると考えている。
リーガルとは、大雑把に正統なモノを示している。
例えば、偏差値の高い大学に入り、良い会社でサラリーマンをやるというのは非常にわかりやすくリーガルであろう。
リーガルの世界では、社会全体が評価軸になってくる。
一方ではイリーガルとは、大雑把に非正統なモノを示している。
例えば、中卒でヤクザの道を進んだりというのは非常にわかりやすいだろう。
イリーガルの世界では、所属団体全体が評価軸になっている。
ボーダーとはその間の人々だと私は考えている。
リーガルにもイリーガルにもなれる存在としてのボーダー。
それは、古くはバサラ大名としての佐々木導誉なども当てはまるのかもしれないし、前田慶二郎のような傾奇者も当てはまるのかもしれない。
彼らの世界では、評価軸が自分個人となっている。


日本の社会において、穢れを必要以上に嫌う観点からもわかるとおり、リーガルとイリーガルの交流は極めて少ない。
ただ、これは全世界的なものであるのかもしれない。
例えば、フランスでは断頭台のギロチンの綱を切るというのは、1つの貴族が永遠と代々受け継いできたものであった。というように。


そうした中で、このボーダーの視点というのは難しいが必要不可欠なのではないだろうか。とりわけ日本においては。
私は、世界的に見ても日本はイリーガルの割合がかなり多いのではないか?と考えている。
それは、このリーガルとイリーガルの壁が険しいように感じるからである。
しかし、この両者は決して混じり合う事が無いのだ。


もし、あなたが東大卒で誰もが知っている様な会社に勤めているとする。(TOYOTAとか)
その人間が、中卒の人間と仲良く居酒屋で飲み交わす、という様な事が想像できるだろうか?
その想像が難しいと思う人間ほどリーガル・イリーガル世界にいると私は思う。
しかし、重要なのは、その想像を現実のものとする事である。
それにはボーダー的な評価軸を個人に置く視点がないと不可能なのだ。


社会や団体などに所属することなく、個人自身を評価軸として様々なところを泳ぎ飛び回る。
それが多くの場面で望まれているが一向に上手くいかない。何故か。
出来ないからであろう。というより、そういう事に関して想像力が働かないのかもしれない。


ネットは個人に評価軸を置く人間が利用する事によって初めてその有用性が膨れ上がる。
貴方はリーガルであろうか、イリーガルであろうか?
それともボーダーであろうか?