死ねない事がわかってしまった。

不思議だと思ったことはないだろうか。
あれほどまでに、金金金、仕事仕事仕事と追い立てられた、20代。
親からも「稼げ」と殊更に突き上げる。
「世の中は甘くないのだ」と投げ捨てられる。
それでも・・・


私たちは死ねないのだ。


日本において、なぜここまで仕事が大事であるような思想が蔓延してしまったのか。
それは、「仕事がないと死ぬ」「稼げないと死ぬ」という思想が原因ではないかと思う。
しかしである。私たちは気が付いてしまった。
仕事がなくなっても死ねないのだ。という事を。


もっと言ってしまえば、あらゆる事をやっていても、多くの場合死ねないのである。
これは何か歪んではいないだろうか。
何故そこまで、死を望むのであろうか?
それは、日本人の心を武士道としてしまったからだと私は思っている。


武士道とは何か?と言えば端的に次の言葉がすべてを物語る。
もののふの道とはしぬこととみつけたり」


武士道を体現する者とは、全ての行為が生きるわけではなく死ぬために行われる。
江戸時代の武士の世界において最も名誉な事とは何であったか?
それは、「あまりにも有能過ぎて、殿様から切腹を言い渡される事」であった。
しかし、無能であれば当然首が飛ぶ。
どちらにしろ、その価値観の中心には「死」が存在する。
「崇高な死」こそが「有意な生」を規定するのだ。


私には、「過労死」とは、武士道に沿ってみれば「崇高な死」であるように思える。
仕事のしすぎで仕事に殺される。
これは、「殿様から切腹を言い渡される事」に極めて似ているのではないだろうか?
その「崇高な死」を求めて人は猛烈に仕事をした。
何故なら、その「崇高な死」こそが、自分の生に有意を与えるものだからである。


しかし、多くの人は気が付いてしまった。
大多数の人が「崇高な死」を手に入れ「有意な生」を与えられるという事は無いのだという事を。


そう、我々は死ねなくなってしまったのだ。
我々が思想的に混乱してしまっているのはこの事だと思う。
日本人が自ら問う「何故私は生きているのか?」という質問は、多くの場合「なぜ私は死んでいないのか?」や「なぜ私には"崇高な死"が訪れないのか?」という質問と交差する。


このゾンビのような人間たちが織りなす日本社会。
ある意味で、最も異質であるが、この世界こそが次なる日本社会を作るための「熱い鉄」ではないかと思っている。