文化を伝播するとは。

文化が伝わる。文化が浸透する。
これは端的に言って何を意味するのだろうか?
私は、これは「文化が理解された」と解釈する。


他者は自分たちとは異なった文化圏に属している。
たくさんの文化圏が存在し、多くの場合、同じだと思っていた人々の中にも異なった文化圏が存在している事がある。
文化圏とは、相互に理解しあっている文化状況を共有する空間であるといえる。
こうした文化圏に対し、新しい文化が「舞い降りる」事は可能なのだろうか?


実は、この「舞い降りる」事自体がすでに伝播であり、浸透の第一歩なのである。
新しい文化に接する。この瞬間から伝播・浸透が始まる。
しかし、ただ単に接しただけでは伝播されることはない。
何故なら人は、新しいものに対しては基本的には、防御姿勢や迎撃態勢をとるものだからである。
つまり、新しい文化はほぼ確実に「排斥」される。


その「排斥」を避け「浸透」させるためにはどの様な行為が必要なのだろうか?
それは「説明」である。
「排斥」から「浸透」への変化の過程には必ず「理解」という道が必要なのである。
「理解」がなければどの様な文化も「浸透」に転じるのは不可能であると私は考えている。
これは、何も他国や他者といったわかりやすい違いだけではなく、本来一緒であったと考えていた土壌から新しい文化が生まれつつある時も全く同様である。


人には恐怖心の他に好奇心なるものがある。
文化の排斥段階に至っては、恐怖心>好奇心となっているのは間違いないだろう。
その不等号の向きを変えていく努力が必要なのだ。
その努力こそが「説明」である。
とりわけ、新しい文化の伝播・浸透には丁寧な説明が必要であろう。


では、説明するとはどういう段階が必要なのだろうか?
それは、「細かく分ける」事である。
イメージとしては、「未知なる物体を食べる必要に迫られた時の調理法を考える事」にきわめて似ていると私は考えている。
細く切って、焼くのが良いのか、煮るのが良いのか?
はたまた、今まであった食べなれた調理法を利用してみるのが良いのか。
ちなみに、醤油が欧米に伝播した際、「照り焼きチキン」の貢献度は計り知れなかったという。
これは、調味料であるために一概に同じとは言えないが、日本の「ブリの照り焼き」のソースを、欧米人が良く食べる「チキン」に応用したという。
文化の伝播・浸透を考える上で極めて示唆に富んだ発想であり方法であると私は確信している。