我々はどこにいるのか?

我々は今、20年に及ぶ長い日本改革期にいるのではないか?この頃、そう思うようになってきた。


始まりは、小泉純一郎だったように思える。
2001年4月から約2000日に及ぶ政治改革。
光と闇があり、果たして我々にとって十分な改革ではなかったのかもしれない。
しかし、改革が目の前で、しかも見える形で行われたという点は評価しなければならないと考えている。


次にきた改革というのは、改革というのは名ばかりだったかもしれないが明らかに目に見える形でやってきたと思う。
それが、2009年の民主党への政権交代
自民党の55年政権が遂に終焉を迎えた。
多くの部分で、自民党がもっていた膿を吐き出しつつある。
問題はそこに対する対処法を持ち合わせておらず、ただ醜悪な部分を露呈し続けているだけで全く改革らしいことは生まれでなかったのであるが。


そして、目の前にある3.11以降のデモである。
今までのデモとは全く違う、ヨーロッパのデモとも違う新しい形があるように見える。
私は、あるプラカードに「I want Girlfriends!」とあって、そのプラカードに日本の将来を見た。
期待できる将来を、一色・一枚岩が素晴らしいとされた戦後のスローガンの中、多様性を見失いつつあった日本の、力を集結する場として機能するはずのデモの中に、最高にわかりやすい多様性を発揮したその一枚のプラカードは、デモが織り成す可能性に私は希望を見たものだった。


こうして3段階に改革期としてみてみると非常にフランス革命期とダブっているように感じるのは私だけだろうか?
小泉改革    →フイヤン改革
政権交代改革  →ジロンド改革
デモ改革    →ジャコバン改革
といった具合に考えていくと非常に面白いのではないだろうか。


体制の中から必要性を感じ改革が叫ばれた小泉改革は、明らかにフランス革命前夜の王党派による改革に近い
しかも、あまり血が流れていない部分も似通っている。
政権交代による改革は、改革後にその主流派の権力闘争が始まる辺りも極めてジロンド改革に似ている。
その際は粛清も行われたが、今回はほとんどそのような形は起きなかった事は注視しなければならない。
そして、デモによる改革断行は正に日本のバスチューユになりそうである。
これに、今までの既得権益と言われているような人たちの参加、つまり日本で言うところの「B層」であろう。
彼らは基本的に、日本のシステムが生み出した、最も身軽な既得権益層であると私は考えている。
しかし、私は彼らの存在を認める。
その上で、選択できるだけの情報と心構えを以って欲しいと願ってやまない。


私は、20年に及ぶ改革期と最初に言った。
フイヤン改革が始まってから約10年経過している。
まだまだ改革は折り返し地点。
終わるどころかこれから更に激しさを増していくかもしれないような状況である。
我々はどこへ行くのか。
ジャコバン改革に足を踏み入れた日本において、どこに行くのかは最も人気のある発言をするものを中心として進んでいくことになるだろう。
全ての人が責任を持ち選択する必要がある。
「自由」に対する全国民による闘争への突入。
その闘争への参加切符は、「自分の意志に基づく選択」である。これは絶対必須条件である。


私は基本的にはジロンド派である。改革は、元の形を全て否定する行動によって生み出されるものではないと確信している。
何故か?それは、ジャコバン改革はその性急さゆえに、大量の粛清が断行される血の改革だからである。
私は血が流されることを前提としている改革遂行方法を否定する。
本来、我々はしっかりと政権交代改革の段階でもっともっと強く要求するべきだったのである。
ジャコバン改革へと進んでいく日本の状況を見て、私は無力だったと痛感せざるを得ない。


その上で、ジロンド派であるから主張することが出来る事がある。
私は、ジャコバン的な暴力改革を、その暴力ゆえの性急さが生み出してしまう粛清が故に否定する。
しかし、ジャコバン改革を選ぶ、その人たちの意志を私は否定しない。
その選択は、「自由」のために必要な選択であろうし、ジロンド改革が否定された今、ジャコバン改革がなされるのは歴史の必然である。
私は誓う。
ジャコバン改革に対して、全ての強硬手段を含む弾圧に対して徹底的に戦うことを。
彼らの選択・勇気・未来への渇望を阻んではならない。
ジロンド派故に行える選択である。


私は全ての人の選択を前提とした行動を賞賛する。
故にその行動を否定している者に対しては徹底的に訴求していく。
その「選択権」という名の、生きる権利故に。