信頼を語る。

ビジネスシーンにおける信頼を語るのは一般的だが極めて難しい。
何に対して信頼をするか。何を信頼するか。
多くのビジネスシーンにおいてそれが極めて大事である。
そして、多くの場合、「技術」と「名前」を信頼してきたのである。
例えば、「ヨーロッパが作っている」・「アメリカで流行っている」は完全に「名前」を信頼している。
これは、学歴主義も全く以て同じである。
一方で、「発展途上国は信頼がおけない」・「中小企業は危ない」は「名前」も「技術」も問題であろう。
発展途上国の機器は確かに、現在日本や欧米で使われているようなモノよりも技術度が劣るかもしれないし、中小企業が作るものよりか大企業が作っている技術の方が信頼しやすいだろう。


さて、我々ビジネスシーンにおいては、信頼が極めて重要である。
正確にいえば、信頼を担保として行われる取引がほとんどである。
例えば、この技術は10年間壊れないだろうという信頼。
この国は20年ぐらいは政治が安定しているだろうという信頼。
これら、全て信頼を元にしている。
では、この信頼はどこに依拠するのか?というのが今回のポイントである。
日本においては圧倒的に「名前」を信頼しがちである。
これは例を挙げる必要もないだろう。当たり前すぎる。


私はこの「名前による信頼至上主義」とも呼べる「名前」に対する絶対的な信奉が今の日本の停滞感を作り出した主原因の1つであると考えている。
「名前による信頼至上主義」にはいったいどの様な問題点があるのだろうか?
私は主に3つあると考えている。


まずは、責任放棄の問題である。
「名前」に依拠された決定は責任の放棄につながる。
例えば、仕事において会社が決める評価軸に伴った成果が全く出てなかった新人がいるとする。
この新人が実は東大生であった場合と、他の誰も名前を知らないような大学出身だった場合、どちらの方がその人を採用した人間の責任と考えられるだろうか?
「東大生でなら仕方ない」と採用した人を許すような人が多いのではないだろうか?
実際のところの責任が軽くなるわけでは全くないのだが。


次に、計画の精密さの否定である。
「名前」を伴った計画は往々にして、そうでない場合に比べて精密さが低い。
例えば、大きな総合商社が計画の中に入っていると、十分な下調べもせずにゴーをかけたりする。
結果的にその下調べが杜撰だったせいで、数多くの計画が頓挫している。


更に、可能性の否定である。
「名前」を前提とした評価は往々にして、可能かもしれない事を不可能の谷底へと追いやる。
日本においてベンチャー企業が上手くいかない理由はここにもあると思う。
同じ様に、発展途上国に対するビジネス展開が上手くいかない理由もここにあると思う。
多くの場合、発展途上国の人や技術を全く信用せずに、日本の技術を丸々持ち込もうとしているのだ。
そうした、自分の事しか考えていないと相手が思う様な行動をとってしまった瞬間に、そのビジネスチャンスは確実に破綻するのだ。


「名前」とはすばらしいモノであり、多くの場合助けになるのかもしれない。
しかし、信奉すべきものではない。
結局、それらの事は全て「思考のサボり」に繋がってしまうのである。
日本企業は少し、サボって効率を上げる事にリソースを割き過ぎているのかもしれない。