言葉を選ぶという事。

言葉を選ぶとはとても難しい。
言葉は適切に選択されなければならないとよく言われる。
しかし、適切な選択は日本語の場合、時として漢語の多用を生み出す。
口語と文語の違い。
この違いに思いをはせない人間はいないはずだ。


そもそも、人間の精神空間全てを言語で説明できるはずがない。
言語には言葉にはどこかしらで誤謬が生じる。
正確には、言語には誤謬性を内在しているのである。
この理論は、言語学においてはかなり昔から言われている事である。
ソシュールデリダの論争は正にこれにあたる。


今回、私が受けた誤謬性は「分ける」という言葉であった。
口語で「分ける」と目の前で言われて何が何だか分からなくなってしまったのである。
後でいろいろ考えた結果として、この場合、"私の理解の基における言語"は「分ける」ではなく「切り離す」であった。
私の中では、「分ける」=「1つのモノや関連付けられている物事を独立させる」≒「分類する」=「categorize」という理解をしている。
一方、「切り離す」=「影響を与えないように遠ざける」≒「分離する」=「separate」という理解をしていた。
近いように見える言語だが、私の中では全く異なるのである。
この様な事は往々にして発生し、私の頭を混乱させることがある。


言語とはとても素晴らしい、人間のコミュニケーションツールであり、思考ツールであり、理性発動ツールである。
だからこそ、人とは運用が違うのだという事をもっと意識する必要がある。
今回の出来事は正にそういった経験であった。
この様な経験をさせてくれた友人に感謝すると共に、自戒の念を込めて、ブログ記事にすることにした。