OutPutそのもの。

人はある事を表現したいし、それを他人に伝えるために表現をする。
この全ての表現形態ならびに様式、そして表現そのものを以って私はOutPutと言っている。
言葉だけがOutPutではない。
例えば、ジェスチャーに代表されるような非言語なコミュニケーションもそうだ。
また、伝統芸能や舞、ダンス、音楽等も全てこれの一形態だと私は思っている。


そうやって考えていくと、生きるという事そのものもOutPutに他ならないという事がわかってくる。
しかし、OutPutには前提がある。それが、InPutである。
InPutの無いOutPutなど存在し得ない。
確かに、ただ叫ぶだけであるとか、走るや音を鳴らすなどの行為は、必要ないかもしれないが、しかし、それを以って自分がしたい事を表現しているとは到底思えないし、更にそのしたい事が、他人に伝わるとも思えない。
OutPutは他人に伝わって初めてそれが存立しうる。


その上でInPutを考えてみる。
基本的に、私は上質なOutPutを他人に提供するためには、その50倍〜100倍のInPutが必要であると考えている。
それは、スポーツ等で言うなら練習である。
そして、知的活動であったら、等しく読書である。
ただの情報の羅列ではない、読書こそが上質なInPut方法であると私は思っている。
特に、良書と呼ばれるある程度分量のある本が良いだろう。
ハードカバーや古典文庫ぐらいである。新書は私は、上質なInPutに含めていない。
この点については後日語る事にする。


ある上質なOutPutには、50倍〜100倍程度のInPutが必ず必要である。
この上質なOutPutとはなんだろうか?
これこそ、私がいう個性である。
自分の本当に表現したい事を、適切な手段によって、正確に相手に伝える。これが上質なOutPutである。
ノウハウや技術と言ったものはそもそも紹介であって、OutPutではない。


最初に私は、OutPutは生きるという事そのものであると言った。
そして、上質なOutPutには50〜100倍のInPutが必要であるといった。
すなわち、上質な人生を送るためには、50〜100人分の人生をInPutする必要がある。
これに必要なのが、良書と呼ばれるある程度分量のある本である。


しかし、他人の人生とは1冊で語れるものでない事は明らかである。
私は、1000冊前後の本を今まで読んできたと思う。
それでも、まだまだ道半ばである。いや、2割も行ってないのではないか?
上質な人生を生きるというのは半端な事ではないことだけは明らかなようだ。