反原発論と原発容認論からみるパララックスとそこから浮かぶ“理性”と。

現在、福島第一原発事故を受けて、多くの人が原発に関しての知識・興味が高まっている。
しかし、Twitterや2chに代表されるネットの議論を見てみると、多くの場合何も生み出さない不毛な議論になってしまっている。
闘争のための闘争というべきか
とりわけ、反原発論原発容認論がぶつかるとその徒労感が激しい。
これはいったい何が原因なのだろうか。


私からすると、どちらも同じポイントから違う結論を導き出しているという点できわめて難しい議論をしているように見えるのだ。
つまり、この議論は非常にパララックス的性質を持ち合わせている問題といえる。
ちなみに、パララックスとは本来、原理的には同じ場所から始まったはずの問題が、異なった着地点という解・主張・現象が生まれてしまうことを言う。
(この思想原点はジジェクである。詳しくは「パララックス・ヴュー」を読まれることをお勧めする。ただ、彼はむしろ「パララックス・ギャップ」という点をかなり強調していることからこうなってしまった帰結点・着地点を修正し、組み合わせることは難しいと考えているようだが、私はその意見に関しては明確に反対を唱えたい)
これはどういう事かというと、どちらも「現実に対する不安」という同じ出発点を持っているのではないかという事である。


何故、反原発を唱えるのか?(今すぐ止めろ!的な議論)
それは、もう一度地震が来る可能性を考え、何かあったら「今までのような現実が戻ってこない」という危機感からきていると私は考えている。


一方、原発容認は如何であろうか?(電気が足りなくなるから、原発をすぐに止めることは出来ない的な議論)
それは、電気が足りなくなり停電してしまうという点で「今までの現実が戻ってこない」という危機感から来ていると私は考えている。


そう、「今までの現実が戻ってこない」という危機感を持っていることは全く同じなのである。
何が違うのか?
それは、もう一度地震が来るリスクを大きくとるのか、それとも停電してしまうリスクを大きくとるのかという、リスクテイキングの問題である。
結局、オペレーションの問題ともいえる。


ちなみに、多く建設的な議論を進めようとする様な論者たちの多くは基本的に反原発派が多く、色々な資料を基に原発容認派を説いているような構図をよく目にする。
しかし、この様な多くの資料を用いた説き方は今は十分な説得材料にならないようだ。
何故か?
それは、今、現状として日本に「データ」および「専門家」不信が広がっているからだと思う。
今までの東電やTVの御用学者たちが適当なことを言い続けてきたツケがここに来て思わぬ形で現れているのである。
更に、今まで闘争など経験したことのない、“柔らかな”平和の中で暮らしてきた人間たちにとって、その柔らかな平和が少しでも“硬くなる”状況は避けたいのだろう。


原発を止めることによる生活不利益ともう一度地震が来るリスクを天秤にかけて、生活不利益を被るほうが嫌だったのである。
つまり、「地震なんかいつ来るかわからないのだから、来たらどうしようもないし、それよりも生活不利益の方が嫌だ」と言っているのだ。
これに対し、必ず反原発派は様々なデータを駆使し「止めても電気が足りなくなることはない」と一生懸命に説くのだ。
それに対し、容認派は必ずこういうのだ。
「本当に電気が止まることはないの?そして、本当に何か問題が起こるような“地震”は発生するの?」
これも一種のリスクテイキングである。


正直に言われたら、今後地震が来る可能性と真夏に電力不足になる可能性のどちらが高いかといわれたら、私にはわからない。
しかし、これだけは確実に言える事がある。
地震は天災だが、電力不足は人災である。と


地震が起きないようにすることは絶対に出来ない。
地震というものを止めるには、言うならば地球を殺せばいい。
地盤やプレート、更に地球奥底のマントルやマグマなどの動き、公転などありとあらゆる地球の活動を止めるしかない。
しかし、そんな事は不可能である。
つまり、地震を起こさないという選択肢は存在しないのだ。


ところが、電力不足を解消するという点に関しては、全て人間の活動なのでコントロールできるはずである。
いやコントロールしなければならない。
自分の行動をコントロールできないというのは何なのか。
我々人類の発展に最大限寄与した“理性”というものは、このために存在するのではないだろうか?


新たなる人災を避けるために、最大限の“理性”を発揮する。
これこそが人類が全ての生物を押しのけて世界を席巻した最大の武器である。
我々は武器を最大限利用すべきだ。
これこそが人の道ではないだろうか。
恐怖に負けて思考を止めてはならない。
恐怖という暗闇の中に一筋の光を導くのは思考である。
思考を続けることが未来を作る最強にして最大の、そして最後の武器なのである。


我々は1人ではない。
1人ではないからこそ、1人1人が各々が考えなければならない事態なのである。
我々の日常は闘争の日常へと変化しているのだ。
闘争に勝ち抜くためには、生きるリソースを最大動員する“理性”だけが心のよりどころである。
“理性”を持ち、思考を続けることが我々が取りうる最良の方法であると私は確信している。