「I understand」と言わせる事。

議論とは何なのであろうか?
我々日本人は議論が下手であり、議論が苦手だとよく言われる。
言語学的見地によるハイコンテクスト文化なるものでそれを説明しようとする人々がいる。
あるいは、英語のアカデミックライティングの見地から、日本人は結論を最後に言いたがるのでダメなんだという人々もいる。
また、だらだら説明したがる人が多く何を主要な意見としているのかよくわからないという意見もある。
確かにそれらは一理あるのだろう。
しかし、私はそういう技術的あるいは文化的・非言語的な部分による説明ではなく、もっと根本的な部分で議論をする上での乖離が生まれているのではないかと思う。


人々は何故議論するのであろうか?
私は議論とは相手に対し「説明する事」であると考えている。
多くの場合、議論とは「相手を打ちまかす」事であったり「自分の優位を示す」事であったりしてはいないだろうか?
Twitterなどを見ていても「論破した!」と勝利宣言なるものを行う人々がいる。
これは、日常生活でも同じだ。
会社・大学の中や様々な会議中においても「相手を叩き潰す」事が目的となっている議論が数多く存在する。


しかし、実は議論とはそういう事を目的としているのではない。
議論とは相手に「I understand your opinion」と言わせることが目的なのである。
別に、相手が自分の意見に賛同するかどうかや、相手の意見と自分の意見の優劣を決めるための何かではないのだ。
正確にはその様な事は、第三者が決めるべきことであって、当事者同士が決める事では全くない。


しかし、「I understand your opinion」と言わせることは多くの場合、極めて難しい。
何故なら、議論というコミュニケーションをとらなければならない場合、自分の意見を異質であるとか、間違っているとか、受け入れられないとか、理解できないなどといった非協力的な感情を元に行われるからである。
最初から心に壁を作られている相手に対して、フレンドリーなコミュニケーションをとるというのは極めて難しい事なのだ。
それには、伝えるという忍耐と、色々な表現を用いて伝えるのだという誠意と、絶対伝わって欲しいという祈りに似た情熱が必要である。
これが1つでも欠けると、このコミュニケーションは非建設的なもので終わる。


この議論というコミュニケーションを経て、自分の意見に対して「agree」もしくは「disagree」のどちらが相手から発せられようと気にする必要はない。
重要なのは、自分の意見を相手が過不足なく理解できたかがポイントなのだ。
議論はケンカではない。相手を打ち負かす必要は全くない。
最初、険しかった相手の眉が次第に緩くなり、少し柔和な口調で「I understand your opinion」と言わせる事が出来た時、その議論は初めて建設的なものになる。
我々はそれを真摯な態度で求め、実践しなければならないのである。