無いからあるという事

フランス革命と日本の改革は決定的に違う事は誰の目にも明らかである。
日本の改革のほとんどは、一部の上流階級のモノであった。


最後の民衆の政治闘争ともいえる1960年頃に起きた学生闘争でもそうだった。
結局、暴れていたのは、当時の学生知識層。
そもそもその時代に大学生でしかもあまりアルバイトなどで日銭を稼ぐ必要がなかったような人々はどのくらいいたのだろうか?
そんなものはごくごく一部だったと思う。
当時、最も恵まれた学生だった人たちが暴れていただけであった。


日本において、現状を打破しようとする動きは、一部の上層階級のモノであって、一般民衆のモノではなかった。
明治維新においても結局のところ、武士や医者などの一部の「権力からあぶれた人々」の抗いであって、一般民衆にとっては「単なる権力闘争」に過ぎなかったのではないか?


フランス革命では、文字通り血が流れた。
正に市民の血が流れた闘争だった。
イギリスには血が流れない革命があったと言われている。
所謂、名誉革命である。
しかし、イギリスにとっての最大の革命は、工場法および航海法の改革であった。
あの戦いはすさまじく、労働者と資本家の大抗争となったのである。
結局は労働者がある程度の権利を獲得する事になった。


私たちは、「ないから創られる」という歴史的事実を知ることが出来る。
フランスには市民という発想がなかった。
権力者と被権力者でしかなかった。から、被権力者が自らを守るために市民を作り出した。
ドイツでは、13世紀には「都市の空気は自由を生む」と言われた。
ドイツの農奴制およびギルド制社会には自由がなかったのである。
イギリスにおいては、労働者の権利なるものは一切存在しなかった。
労働者は、資本家にとってはただの機械も同然だった。
だから、労働者という階級を生み出すことになった。
アメリカでは黒人が今も本当の平等を手に入れるために戦っている。
アメリカでは黒人に白人との平等など存在していなかった。
その結果、アメリカではフェア精神なるものが栄えているのである。


日本はどうなのだろうか?
私は日本は非常に恵まれているのだろうといつも思っている。
日本には「社会的なシステムとして無いものが存在しなかったのではないか?」と考えている。
どの様に恵まれていたのかというと、昔からずっと日本は「生きていく上での社会的システムは十分に構築されていたのではないか」と考えている。
そして、面白い事に「その社会的システムから除外されていようとも“生きていく事”は出来る」のが日本の社会の最大の特徴なのではないだろうか。
日本の引きこもり・ニート問題はそこに端を発しているのではないだろうか、とすら思う。


しかし、社会があまりにも複雑になった結果、その社会的システムからの除外が一方で死に直結する部分が生まれたのがここ最近なのである。
日本は、本当の意味で貧しくなったのだ。
もしかしたら、日本人が望む生活が日本というものが持つ人間を許容できるだけの力を超えたのかもしれない。
日本人は日本に住むという点において、その日本に受け入れられない状態になってしまったのである。


我々から豊かさは無くなってしまった。
無いものは作り出される。無いからあるのだ。
今後、20年スパンな見方では、もしかしたら、全てを失いつつある日本というのは、全てを手に入れるべくの最後の準備運動と言えるのかもしれない。