意味を持つという事。意味があるという事。①

この行動は意味がある。この批判には意味がない。
この様に意味とは、ある事象に対してあるかないかを議論できるようである。
しかし、一般的にこの前提は間違っている。
正確にいうと、意味は有るか無いかという問題ではないのである。


意味は見出すものである。


意味とは、そこにあるが如く、それそのままとしての価値ではない。
ある事象を受け取ったその本人がそこから"見出す"ものであるのだ。
というのは、果たして正しいのだろうか?
見出すという点に関して、禅の流れが参考になる。
日本人にとって、意味を見出すという発想は禅的な思考法であると私は思っている。


禅を行う際には必ず、組み終わった後に講釈(ありがたいお言葉)がなされる。
多くの人にとってはそれは全く以って退屈なものなのである。
小学生のころ、全校集会の校長先生のお話を楽しく聞いていた人はどれほどいるのだろうか?
しかし、禅においてはこの講釈が極めて重要なものとなる。


禅における環境をもう少し整理してみよう。
基本的に、少しリラックスしつつ人が周りにいるという緊張感ならびに、少し窮屈な座り方をするという緊張感がそこにある。
そして、それぞれにわたって自分本位な悩み事を抱えつつ、その禅を行う。
その間は基本的には動いてはならない。
そうした中で、頭はリラックスな状態であるが、悩みを持ち続けた状態となる。
いわゆる、準緊張状態の持続が行われる。


この状態の後に、禅が終わると、講釈が始まる。
禅の師匠は基本的に、1人1人の悩み事等は知らない。知る余地がない。
しかしその上で、何か少し胸がすくような話をする。
すると、脳は違った刺激を求め、その講釈を様々に解釈しようと動き始める。
その結果、その悩み事に対して、その講釈に意味を見出そうとするのだ。
脳は基本的にナマケモノでありかつ、頑張ったリターンを貪欲に求める機能である。
よって、よくわからない準緊張状態というきつい負荷をかけられた脳はその見返りを求め、講釈を解釈しにかかるのである。


実はこの「何でも良いように解釈しようとする」というスタンスが意味を見出すということなのである。
そして、この"見出す"という行為こそ、事象に意味と価値を付加するための行動なのである。


つまり、事象はそれそのものとして独立した存在であり、それ自体に対しては何の意味を持たないのだ。
言うならばそれは「現存在」そのものとしてそこに有る。
何故有るのかと言えば意味を見出したが故である。
意味とはその事象に内在しているものではなくて、その事象に自身が付与するものなのである。