「正義」について考えてみる。

まずはこちらのTogetterをご覧いただきたい。これは非常に重要な問題を有する。
http://togetter.com/li/76917


正義とはなんであるのか?という前提条件が極めて曖昧である。
これは、先日の東京都の条例を議論している時にも起こった事であった。
基本的に規制推進派の言い分の最も強い主張は「社会的コンセンサスの元では自由は制限されるべき」という“べき論”がある。
これには「社会的コンセンサスで決定されることが正義である」という前提に基づいている。
果たしてここでいう“正義”とは一体なんであるのか?
こういう議論をすると必ず頭ごなしにこういわれる。「正義は正義である」と。
前提条件やバックグラウンドを確認することなく、言葉に付随するイメージによって会話している証拠であるともいえる。


だが実際に、本当に「正義」は“正義”であるのだろうか?


それは明らかに異なっている。
何故なら、まず正義の説明の仕方が異なっているからである。
○○にとっての正義。○○を前提とした正義。などなど。正義を説明する理論は東西を見渡し、過去をさかのぼるとそれはもう無数に存在する。
全ての人にとって、正義とはきわめて重要な概念であるが、しかしその発生は異なっており、更に帰結すら異なっている事が多い。


例えば、今年、マイケル・サンデルの「これからの「正義」の話をしよう」は非常に好評であった。
ちなみに、マイケル・サンデルプラトン的な「正義」論者である。
他にも、ロールズの正義もあれば、功利主義的な正義、リバタリアン的な正義もある。
更に厳密には、カントの正義論もあるし、モンテスキューの「法の精神」からも正義論を書くことが出来るだろう。
この様に多種多彩な「正義論」がある。それを一まとめに正義と果たして言い切れるのだろうか?
それを考える際に必要なのが、どの部分の正義は共通でどの部分は違っているのか?であろう。
つまり、原理源流に戻る必要があるのだ。


多くの議論で、「そもそも」や「この背景は」という様な枕言葉を使うと、「長いんじゃなかろうか?」と思われて結論を急がされる。
しかし、実はこの時の重要な問題はこの「そもそも」の中にある「前提条件」って一緒なんですかね?という部分。
私は日本人に限定して物事を話したくは無いが、この部分に関しては日本人は極めて弱い。極めて脆い。
これは、1つに「日本人は日本人という社会的コンセンサスを共有している」という大前提を多くの人が持ち合わせていて、議論する際に「相手とは異なる考え方を持っている」という前提に立てないからだと思う。
本来、相手と議論する場合は、意見の異なりが在るのだから当然「異なる考え方を持っている」というのは、当たり前だと思うのだが、大多数の日本人にとってはそうではないようだ。


相手のことを本当に尊重し、相手の話を真剣に聞く基本的なスタンスは間違いなく「私と相手は違う考え方・バックグラウンドを持っており、この部分を共有しなければ先には進まない」というものだろう。
個人の時代、パーソナルがコンテンツになる時代である現在において、このスタンスを持ち合わせる事は極めて重要なのである。
相手を拒絶するのではなくまずは「相手は何を考えているのか?」を聞く必要がある。
そして、相手に嫌われようとも「自分が何を考えているのか?」を根気強く説明する必要がある。
話を聞く、真剣なコミュニケーションをとるとはそういう事なのだ。
相手の前提を理解した上で、コミュニケーションをとることを時代が要求しているのだろう。


「議論をする上では、バックグラウンドや原理原則に立ち返る“コード”を時代が要請しているのだ」