Artとデザインは何が違ったのか

結局のところ、Artとデザインは何が違うのだろうか?
それは、Artとは自分という個に立脚したモノであり、デザインとは他人という世界に立脚したモノであるのだ。
そのことが決定的に異なっているモノであって、さらに言えばその違いこそが世界に対する影響の違いなのである。


世界に対する態度とは往々にして実は2種類しかない。
対立するか受け入れるかである。
時に、自分に合ったものを探すというのがあるが、それには自分の個性や努力・行動以上に幸運が必要になる道であり、私にはあまりお勧めできない。


私からすれば、Artは世界と対立するための表現方式である。
一方デザインは、世界を受け入れるための表現方式である。
同じ表現方式であることは間違いないが、その前提は全く異なっている。


そもそも、個人の意見や視点とは「圧倒的な他者である情報」によって集積されて生まれる氷山の一角であり、結論として一般的には個人の意見など存在しない。
他人の意見を纏め上げて、情報を提供しているにすぎないのである。
これは、純粋理性などと言われる近代哲学の最大の前提要件である「コギトエルゴスム」に至っても同じことが言える。
何故なら、その理性による問いの立て方も、それを構築する答えに至る理路も、その理路から当然であろうと推測される解も全て、他者や世界において全く影響を受けていないと断言できるものは何一つ存在しないからである。
世界を説明する、現存する言葉を利用している限りはこの呪縛から逃れられることはないのだ。


そう、我々個人を作り上げている要素の99%以上は明らかに他者・世界の影響を受けている。
個人に立脚するいわゆる「自由意思」などほとんど存在しえないのである。


その上で。それでも、先人たちは多くの困難や壁を乗り越えて、他者・世界に対して少数の個人が影響を与えてきた。
それはナイチンゲールなどの実例やマーガレット・ミードの言葉を借りるまでもなく、直感的に明らかな事である。
その形、その変化こそが実は「自由意思」であり「個性」であるのだと私は確信している。
そう、個人の「自由意思」や「個性」は正に世界を変える要素であり、かつ世界を変える唯一のモノなのだ。


世界という透明な水に対して、絶対的な「個性」という絵具を一滴たらすと、その水の色は変化を始める。
その絵具が濃ければ濃いほど水の色は変化しやすい。
最後のピースをはめ込むとオセロの様にパズルを構成する全てのピースの色が変わる。


Artとは世界に対して個性が戦いを挑む事である。
デザインとは世界に対して受け入れられるモノを作り出す事である。


この対応はArtとデザインの関係にとどまらない。
貴方自身が気になっている・従事しているそのモノに一度分類分けしてみる事をお勧めする。
そう、例えば、「消費者が求める製品のみを作り出す事は果たして世界を変えるようなイノベーションに繋がる思考回路と言えるのだろうか」という問いを立てる事は非常に有意義だろう。