難しい文章と簡単な文章について。

哲学の本は得てして非常に難しい言葉を文章で使っている事が多い。
少し訝しげに見れば、わかり易い言葉を使って説明するというよりもわざわざ難しい表現を使って説明しているかのようである。
これには重要な理由がある。


わかり易い文章というのは何故わかりやすく、わかり難く難しい文章というのは何故そうであるのか?
何故わかりやすいのかといえば、その文章の意味が少し曖昧であるからである。
よってわかり易いモノとは、作者・筆者の考えというよりも、その作者・筆者の考えを自分が理解できる範囲で理解し、再構築したものであるといえる。
一方で難しい文章というのは基本的に解釈の余地がほとんどないように書かれている。
よって難しい文章とは、作者・筆者の考えを正確に理解しようと努めて初めて理解に至る。
つまり、わかり易いのは自分の意見だからであり、わかり難いのは他人の意見だからである。


ここでは、哲学について考えてみる。
哲学の根本は思考回路・思考ツールである。
それらの道具に解釈を加えるという事は不可能である。
正確に言うと、ある1人の哲学者の意見に解釈を加えるという事は、新たな思考経路を作ることと同義であり、それは哲学者における哲学書ではなく、読み手による哲学書となってしまう。
哲学者達は自分の考えに解釈の余地がないように、誰が読んでもその通りに意味が取れるような、「難しい言葉」を熟慮した上でそれらを用いる。
結局、その様な目的で作られた本や文章が難しくないはずがないといえるのだ。


これは、哲学のみの話のように聞こえるかもしれないが極めて一般的な事象であるとも言える。
何故なら、「解釈による誤解・誤謬」は多く散見されるからである。
出来る限り「誤解・誤謬を挟まない」言語を使うというのはそれだけ根気の要る作業である。
しかし、読者の事を考えるとある程度「読み易い」言語を使う事も選択肢として存在する。
結局は使う者の倫理感や一種の決まりごとの中でやっていく問題だろう。


「言葉は自らが表現したいモノの表象しか記することは出来ない」